作・達磨信
ヒロはカウンター越しに並んで座る二人を相手にするのが楽しい。接客しながら何故かこころが安らぐ。素晴らしい世代間交流があるからだ。
津嘉崎さんは伸之に息子のような慈愛を持って接している。伸之はヒロの前ではメーカーズマーク教授、ときにMM教授と呼びながらも津嘉崎さんをこころから敬愛している様子がうかがえる。
今夜も伸之がメーカーズマークのハイボールをオーダーした途端に津嘉崎さんが登場した。不思議とこのパターンが多い。
二人がハイボールでひと息つくと、ヒロは伸之に津嘉崎さんへきちんと報告するように促す。伸之は照れながらもあらたまった口調でこう告げた。
「この度、結婚することになりました。もうすぐ、6月に式を挙げます」
この報告に津嘉崎さんの顔がたちまちほころぶ。
「おおっ、おめでとう。ご両親、そう、ミントのお母様もお喜びでしょう」
独特のオーラがあり、感情の起伏を表すことのない津嘉崎さんがはじめて見せるその表情は、まるで親戚のオジサンのようだった。
伸之も驚いて次の言葉が出ないようだったので、ヒロが先に口を開いた。
「お相手は高校時代の2年後輩だそうで、ノブを追って東京に。しかも同じ大学に入学したという。ノブのサッカーをする姿に胸をキュンキュンさせていたらしいです。彼の運動神経の高さは認めますが、胸キュンとは、うーん」
「高校時代、全国に名を馳せた竹邨(たけむら)洋孝、ヒロさんと比べられても困ります。オホーツク圏の高校では目立っていたんですよ」
すると津嘉崎さんが首をひねりながら、「どなたでしたかね。同じように憧れの人を追って進む大学を決めた女性がいらっしゃった。さて、えーと」と必死に記憶を辿ろうとしていたがすぐに諦め、「お二人を見ていると、素敵な先輩後輩関係ですね。スポーツで結ばれた絆は固い」と苦みばしった顔で言った。
「入れ違いだったからよかったんです。少しでも重なっていたら、なんだこの先輩は、と呆れられていたはずです。わたしは同好会をいいことにアルバイトばかりやっていまして、練習にはたまにしか顔を出していませんでした」
ヒロがそう応えると、伸之が「津嘉崎さんは勉強ばかりなさっていたんですか。身体に恵まれていらっしゃるから、元アスリートみたいです」と言う。
「中学、高校と真剣にバスケットボールをやっていました。公立中学から都立高校でしたから、まあ頑張ってもいいとこ止まりです」
「バスケ。納得です。長身で筋肉質。スタープレーヤーだったのでは」
津嘉崎さんのノリがいいことに乗じて、伸之が質問を繰り出しはじめた。
「自分で言うのもなんですが、あなたと同じで運動神経はいいほうでした。それに185センチありますから自然と目立つプレーヤーになりますよね」
そう答えた津嘉崎さんはハイボールをひと口飲み、「それよりも今夜はお祝いです。ご馳走します。飲みたいものをおっしゃってください」と言った。
「えっ、ほんとうですか。よろしいんですか」
感激する伸之に、津嘉崎さんは「はい」と表情を変えずに返した。
「それではお言葉に甘えて、ボウモアをいただいてもよろしいでしょうか」
「どうぞ、どうぞ。でも、どうしてボウモアなんですか」
「新婚旅行で、スコットランドのアイラ島に行くことにしたんです。とくにボウモア。前にヒロさんが学生時代に旅をされた話から興味を抱き、一度行ってみたいな、と思っていまして、じゃあ行くならこの機会に、と」
「彼女がよく承知しましたね。アイラと言われてもわからないでしょうに」
「地図で示したら驚いて、自分のアタマのなかにまったく存在していなかった場所だから面白い、ワクワクするんだそうです。世界でも稀なウイスキー島とか、ケルト文化を伝える自然豊かな島、とかは関係ないらしいです」
「純粋に、好奇心をくすぐられたんですね」
「二人とも礼文島にも利尻島にも、沖縄だって行ったことがないのに、アイラ島なんです。津嘉崎さんはアイラに行かれたことがありますか」
「ええ、二度ほど。妻が大好きな島で、最初は結婚前。次は幼い娘を連れて」
ヒロは二人が会話している間に、師匠でありマスターの橋上清和のもとへ行く。事情を説明するとともに、店のコレクションとして保管してあるボヘミアクリスタルのグラスを使う許しを乞う。マスターはたちまち笑顔になり、すぐに承諾してくれて、他の客に頭を下げると二人の会話の中に入っていった。
津嘉崎さんとマスターは伸之に海に面した蒸溜所の説明をしはじめた。
BOWMOREとは"大きな岩盤"を意味するゲール語である。第1貯蔵庫は波打ち際の岩盤を削り整地した上に建てられ、モルトウイスキーは海抜0メートルの唯一無二の環境のなかで潮の香を纏いながら樽熟成する。
そしてボウモアの町の丘に建つユニークな円筒形をしたキラロウ教会、通称ラウンドチャーチは悪魔が潜み、身を隠す影となる角を極力避けたつくりとなっている。言い伝えでは昔一度だけミサの最中に悪魔が発見されたことがあるらしい。誰かが悪魔の存在に気づき、総出でつかまえようとした。
悪魔は逃げて海辺へと下り、ボウモア蒸溜所の第1貯蔵庫に身を隠す。ちょうど職人たちが出荷のため桟橋に停留した船に樽を積み込んでいた。そこで悪魔は樽の中に入り込み、アイラ島から脱出した。
二人はそんな話を面白おかしく伸之に聞かせている。すでにヒロが伸之に伝えた内容ばかりだったが、彼ははじめて聞くかのように楽しそうだった。
ヒロは二つとも金彩を施した小ぶりのオールドファッションドグラスにたっぷりとボウモアを注ぐ。レモンやハチミツのニュアンス抱いたスモーキーさが香り立つと、かつて菜々子と旅をしたアイラ島の想い出がよぎる。
グラスを二人の前に置くのを待って、マスターが祝いの言葉を述べた。
「竹邨が特別に選んだグラスです。金彩の縁取りが華やかながらシックでしょう。それでは、おめでとうございます」
伸之が「ありがとうございます。もったいないくらい素敵なグラスです」と頭を下げる。津嘉崎さんもグラスの選択を褒めてくれ、「おめでとう」と言ってしばらく香りを楽しみ、おもむろに口に含む。しっかりと味わい、余韻に浸るかのように目は宙を見据える。その所作に、ダンディズムが香った。
ヒロは菜々子の面影をグラスに映しだしていた。花に対して優しく真摯に接するだけでなく、彼女自身も花のように香り立つ女性だった。いま頃はイギリスで学んでいるのだろうか。そうあって欲しいと願う。
菜々子に出会えたから、いまの自分がある。しかしながら、俺は成長しているのだろうか。そうでなければ彼女に申し訳ない。
突然、アイラ島での旅のワン・シーンがよみがえってきた。
ラウンドチャーチの前で「悪魔がいないから幸せになれるかもね。いまここで、二人だけで結婚式を挙げようか」と菜々子は言った。不意の言葉にドギマギしているヒロを見て、「もしかして、本気にしたのね」と笑い転げた。
ウン、と答えていたらどうなっていただろうか。いま想えば、彼女は本気だったような気がする。祝いのボウモアの香りがヒロの胸に切なく沁みた。
(第14回了)