Whisky Smiles Gently ショートストーリー ウイスキーは物語を映す Short Story

第13回
「若葉の頃」

作・達磨信

 摩天楼を取り巻く光に見惚れる。大夜景が広がるなか、間近に臨むライトアップされた東京タワーの輝きは夜の都心を見守る女神のような存在感を放っていた。毎正時、00分になると純白に煌めく。菜々子の目には、その様が安寧を願う女神の微笑みに映った。
 東京に別れを告げる夜、菜々子は思い切って最後の贅沢をした。東京タワーが眺められる高層ホテルの部屋に一泊することにしたのだった。
 明日は京都の実家に帰る。束の間、お婆ちゃんや母への孝行をして、ゴールデンウィークが明けたらイギリスへと向かう。

 前夜まで何度か社長の良美さんと食事をした。話は尽きなかった。菜々子のいちばんの理解者で、娘のように可愛がっていただいた。感謝しかない。
 一度、良美さんから誠一さんとのことを聞かれた。良美さんはすべてを感じ取ってくれていたようだ。自分の接し方がいけなかったのだ。
 新型コロナウイルスの世界的な感染拡大がなければすでにイギリスに留学していたはずだった。酒場の営業に規制がかかるなかで自分が花を活けるバーのことが気にかかり、飲みにいくうちに誠一さんと知り合う。焦燥感に襲われて不安定な精神状態で日々を過ごしていたために隙があったのだろう。
 誠一さんから、自分が設計に携わったイタリアンレストランを見てもらいたいとの申し出を断りきれず、そこから何度か会っているうちに彼の気持ちはひしひしと感じてはいた。でも気づかない振りをしつづけるしかなかった。
 誠一さんはとても真面目でいい人である。でも、彼にふさわしいのはわたしではない。もっと好ましい人がいる。申し訳ない接し方をしてしまった。

 今夜は東京での最後の晩餐だった。菜々子はフレンチレストランを予約して津嘉崎友里さんと神丘藍さんを招いた。津嘉崎さんはご夫妻でのお声がけをしたのだが、ご主人は「女性だけでどうぞ」と遠慮された。
 世俗的な情報に興味を示すことのない、自分だけの世界観がある友里さんと藍さんと接していると菜々子は不思議なほどこころが落ち着く。二人の存在がなければコロナに負けてイギリス留学は叶わなかったかもしれない。
 友里さんに「菜々子さん、あなた、もしかして忘れられない人がいるんじゃないの」と問われて動揺した。藍さんは「えー、そうなの」と、ただ驚きを口にしただけだった。この時ばかりは男女関係に無関心な藍さんに救われた。
 友里さんはそれ以上人のこころのなかに踏み込むようなことはしない。微笑みながら首を傾げた菜々子を見て察し、話題を切り替えてくれた。

 友里さんの「忘れられない人」の言葉が消えないままホテルの部屋に戻り夜景を眺めていると、ヒロと仰いだ夜空がよみがえってきた。
 10年以上も前になる。菜々子が社会人1年目で、ヒロが大学3年の夏に二人でスコットランドを旅した。彼は懸命に貯めたアルバイト代をつぎ込み、ひと足先にスペイサイドの蒸溜所を巡った。菜々子は夏季休暇が限られていたためにグラスゴーで合流し、そしてウイスキーの島、アイラ島に向かった。
 すべての蒸溜所を訪ねた。ボウモア蒸溜所でカモメが飛び交う様子を眺めながら、ヒロが「こんな遠くの島にいる自分が信じられない。ウイスキーは旅をさせるんだな」としみじみと言ったのを覚えている。
 夜、ボウモアの桟橋で波の音を聞きながら星空を仰いだ。「今度は日本で星を見よう。白州に行こう」とヒロは言った。
 白州蒸溜所へ行ったのは翌年の春、日帰りの旅でちょうどいま頃である。森の蒸溜所の春は遅く、清澄な空気のなか若葉の季節を迎えていた。ヒロはこのときすでに大学卒業後はバーテンダーになることを決めていた。
 JR小淵沢駅の駅前でレンタカーを借りて蒸溜所へ行く。すべての工程見学が終わると試飲の場となる。クルマの運転があるからヒロは試飲ができない。菜々子が試飲をためらっていると、「気にしないで飲みな」と言ってくれた。申し訳ないと思いながら、菜々子はこのときばかりとしっかりと味わった。
 星が煌めきはじめるまで時間をつぶすことになる。ウイスキー博物館の麦芽乾燥塔を模した双頭の展望台からの眺めは素晴らしかった。南アルプスや八ヶ岳の山容に目を奪われる。清冽な水が流れる尾白川渓谷にも行った。やがて声を上げてしまうほどの美しい満天の星に圧倒される。まさに星が降るかのようで、ヒロに感謝した。そして最終の特急電車に乗って東京に帰った。
 翌日の夜、菜々子の部屋にシングルモルト白州とスペシャルリザーブを手にしてヒロはやってきた。彼は「ブレンデッドのリザーブは白州がキーモルトなんだ。白州のニュアンスがあるのがわかるはず」と得意げに言った。
 白州モルトにはフルーティーさとともに森の若葉のようなみずみずしさがある。リザーブをストレートで口にするとその感覚が伝わってきた。
 ヒロはたくさんのグラスを菜々子の部屋に持ち込んでいた。アルバイト代から少しずつ買い集めたものだ。そのなかから彼は「軽快なグラスが合うような気がする」と言って、うすはりのタンブラーを選んでリザーブのハイボールをつくる。「美味しいから飲んでみてよ。きっと好きになるはず」とすすめた。
 ヒロの言うとおりで、菜々子はたちまち気に入る。それからしばらくはリザーブのハイボールばかり飲んでいた記憶がある。
 東京最後の夜にその味わいが口中によみがえってきてしまった。清々しさのなかにバニラのような甘さが感じられる味わいがとても恋しい。
 もしも、あの若葉の頃に戻れたなら。
 胸も目頭も熱く、東京タワーが滲んで見える。
 そういえばオールドもよく飲んだ。ヒロのおかげでいろんなウイスキーの味わいを知った。感傷に浸っている自分に気づき驚きながらも、いまの感情に抗うことができない。
 菜々子は高校1年のときに高校サッカー全国大会の観客席でヒロの雄姿を目のあたりにした。ヒロの決勝ゴールのせいで兄の最後のゲームになってしまったのに、彼に胸をときめかせているもう一人の自分がいた。
 ヒロとの出会いは大学での津嘉崎さんの講演で偶然にも席が隣り合ったことがきっかけだ。サッカーを断念して2年浪人して大学に入ったことを知る。そしてヒロがバーで働きはじめてすぐに津嘉崎さんが常連客であると知った。奥さんと出会ったのは彼と別れてすぐ後のことで、不思議な縁を感じた。それでも、夫妻に明かすことはなかった。
 もうひとつ秘密がある。マスターの人柄にほだされてヒロとは縁のないバーに花を活けつづけた。マスターには大変申し訳ないけれど、ヒロが将来独立して店を持ったときのことをいつも想い描いて仕事をしていたのだった。
 目に映る夜景は滲んでぼやけて東京タワーの輪郭さえもおぼろになっているのに、誰にも明かすことのないシーンだけは鮮やかによみがえる。
 菜々子のこころのなかの想い出グラスは満ちてあふれそうになっていた。

(第13回了)

絵・牛尾篤 写真・児玉晴希

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