作・達磨信
しばらく誠一が顔を見せないのでマスターは心配していたのだが、彼は変わらない人懐こい笑顔で店に入ってきた。
丁寧に頭を下げ、「ちょっと、ご無沙汰しておりました」と言って誠一はカウンター席に着いた。マスターがおしぼりを渡すと、手を拭きながらちらっとカウンター端に活けられた花のほうに目をやった。
ユーカリの緑の中程にバラに似た淡いピンクのラナンキュラス、その下に黄色いスイートピー。落ち着きのあるなかに春を告げる華やぎがある。
活けたのは菜々子から仕事を受け継いだ隼坂鞠子という女性だ。菜々子が最も信頼している後輩らしい。この店に花を活けるにあたり、事前に菜々子にチェックしてもらったという。彼女は細かいことは言わず、「マリちゃんの好きなように、自信を持ってやりなさい」とアドバイスしたらしい。
「たしかに久しぶり。元気そうだね。いつものジン・トニックにするかい」
「はい。お願いします。なんとか、元気です」
そう応えながら誠一は照れ臭そうに笑った。無理に明るく振舞っているようではない。極度に落ち込んでいる様子でもない。
マスターは誠一の心境が気がかりではあるが自分からは触れない。そして他にも客がいるため、じっくりと彼の相手をするわけにもいかない。
誠一のジン・トニックをつくり終えたマスターは常連客である年配夫婦を見送った。そしてこれも常連客で会社の同僚の二人の客の相手をして、彼らから新たなウイスキーのオーダーを受けてグラスに満たし、やっと落ち着く。
誠一の前に立ち、「次は何にする」と投げかけた。ところがマスターのその問いが耳に入らなかったかのように誠一が切りだした。
「ちゃんと、気持ちを伝えました。ありがとう、って言ってくれました」
言葉が足りない部下からの報告のような言葉にマスターは戸惑ったが、それでも静かに頷き、次の言葉が出てくるのを待った。
「行っちゃいますね。一人で舞い上がっていたことに気づきもしないで、彼女のことを何も理解していなかった。彼女があの会社で、フラワーアレンジメントの世界で、ずっと生きていくものだと勝手に思い込んでいたんです」
つき合っているような、いないような、恋人未満の状況がつづいていた。何よりも告白できるような隙を彼女が見せたことがなかった。
菜々子はとにかく忙しい。なかなか合う時間が取れない。何度もスマホにメールを入れ、おそらくたまたま空いている時に会ってくれていたようだ。
2時間ほど食事をする。時間をやり繰りしてお互いに気になっている美術展に行く。そんなデートの間、誠一は自分の仕事の話ばかりしていた。それがデートといえるのかどうか。空間デザインに菜々子も興味があり、質問されたりもしたので有頂天になってしまっていた、と一気に話した。
「そうか。キミと菜々子さんはお似合いで、結ばれるだろうと確信めいたものがあった。さまざまなお客さんと接してきて読みが外れたことはなかったんだよ。わたしも彼女のことを何もわかってはいなかった」
マスターは、菜々子のことを恋に不器用な人だと決めつけていた浅はかな自分を恥じていた。
「ツンデレのところはあるけれど、彼女はいつも微笑みを絶やさず、人の話にじっと耳を傾けるから誤解しちゃうのかもしれない。それに自分のことはあまり話さない。マスターが読みきれなかったのは仕方がない」
ロンドンのキューガーデンで学べたとしたら最低でも6年や7年は向こうで生活することになる。その後はどうするのか、と誠一は菜々子に聞いた。彼女はただ一言だけ、「わからない」と返してきた。
誠一は「嘘だと思う、きっと未来図は描かれているはず」と言った。
マスターは同意して頷く。すると誠一がまた唐突に、「ウイスキーが飲みたい気分です」と言ってきた。
誠一はこの店で菜々子と接するうちにウイスキーを飲みこなし、ブランドをきちんと告げてオーダーするようになっていた。今夜の中途半端なオーダーの仕方は、当然ではあるが彼女への想いが燻っていることを伝えている。
マスターは何を飲ませようか、と思案した。菜々子の好きなシングルモルト山崎をすすめるわけにはいかないだろう。今夜はジン・トニック一杯で終わりにさせたほうがよかったのかもしれない。
すると、誠一がマスターの目を見て、こう口を開いた。
「マスターの店で彼女と知り合えてよかった。感謝しています。恋人未満でしかなかったけれど、彼女の仕事に向かう姿勢からたくさんのことを学び、自分の仕事にいい影響を与えてくれました。仕事への自信が芽生えたんです」
誠一の精いっぱいの前向きな気持ちが、マスターのつくる酒を決めた。
「知多ハイボールを飲むかい」
そう声をかけると、誠一はコクンと頷いた。おそらく今夜は酒を飲みたいというよりも、話し相手が欲しかったのだろう。
透明感にあふれるキレイな酒質のシングルグレーンウイスキーのハイボールでwash outすることがふさわしい。束の間であっても誠一の胸の内を洗い流すことができたならいい。自分がしてやれることはそれくらいしかない。
マスター自身も菜々子に魅了され、その気持ちを誠一に重ね、彼に肩入れしていた気がする。そして若い彼女が理想とする世界へと強く、気高く、真摯に歩んでいく姿に学んだことも確かだ。自分も修業を積み重ねてきたつもりだったが、仕事を極めていく情熱が希薄になりつつあったことに気づかされた。
「スーッと心地よく口中を駆け抜けるけど、調子に乗っちゃダメだよ」
マスターは知多ハイボールをつくり、笑顔でそう声をかけた。誠一は忠告を素直に受け取ってゆっくりと喉に流し込むと、こう言った。
「大丈夫。恋に破れた男のヤケ酒は、みっともないでしょう。ハンフリー・ボガートの男のやせ我慢を気取りたいけれど、ハードボイルドを演じるのはボクには無理ですね。それとも泣き崩れたほうがいいんでしょうか」
「泣きな。今夜は許す。しかし、若いのにボギーなんかよく知っているね」
「冗談ですよ。まあ、映画だけはいっぱい観ています。でも、知多ハイボールは爽快感にあふれているから泣き崩れる酒には遠すぎます。それにハイボールでハードボイルドを気取るのも違うような。まいったなー」
そう言って誠一は苦笑する。彼はいつもより饒舌だ。ヘコんで、心境はボロボロのはずなのに懸命に耐えている。
マスターは、キミは立派に痩せ我慢しているよ、卵でいえば固茹でのハードボイルドまではいかなくても半熟のソフトボイルドは演じられている、と明るく冗談で返したかったが言葉にはしなかった。こころの痛みがやわらぎ、立ち直るにはまだまだ時間が必要だ。
誠一の手元にあるグラスを見つめる。透明感のある知多ハイボールが、リセットしなさい、と語りかけ、違う明日へと誘ってくれているかのようだ。
営業中でなければ、マスターも一緒に飲んでリセットしたい気分だった。
(第12回了)