作・達磨信
祖父は目を細めながらかなり薄めにしたオールドのお湯割を啜っている。寿司はあまり口にしない。「ヒロ、たくさん食べろ」と洋孝に言って、自分は小皿料理に箸をつける。母が祖父と洋孝のために近所の馴染みの寿司屋にオーダーした、煮物やお浸しまで付いたスペシャルな出前だ。
両親は地元商店街の福引で当てた特賞で温泉旅行に出かけた。本来ならば近くに住む洋孝の兄の家族が祖父の相手をするのだが、子供のイベントで慌ただしく、この日曜だけ、店が休みの洋孝が実家へ泊まり込むことになった。
来年に米寿を迎える祖父は矍鑠(かくしゃく)としている。一人でも大丈夫だ、と言い張ったようだが母は許さない。明日は兄の家族が泊まり込む。
祖父にオールドのお湯割をつくった洋孝は角ハイボール缶を飲んでいる。
「いまの若い人たちは、そういう缶でウイスキーを飲むのか」
「時と場合だな。かなりイケるんだぜ。おじいちゃんも飲んでみるかい」
「いや、遠慮する。わたしはお湯割2杯で十分だ」
「取っ手が付いたそのグラス、いいじゃんか。オールドの味わいもちょっと違うでしょう。前は、コーヒー用のマグカップで飲んでいたよね」
「婆さんが逝ってすぐ、真由美さんが、ウイスキーを飲むのに粋じゃない、って言って、これを買ってきてくれた。ずっと我慢して見ていたようだ」
耐熱の柄付きタンブラーは、正統を好む母が選びそうなシンプルなものだった。祖母は2年前に病で亡くなった。母は5年近く、祖母の介護に明け暮れていた。それゆえ祖父も父も、母にアタマが上がらない。
「ところで、バーテンダーの仕事はどうなんだ。修業がつづくな」
「俺はスタートが遅かったから、来年でやっと10年目。ずっと修業だよ」
「サッカーも同じだったように、鍛練は当たり前。でもそれだけではダメだ」
そう言って、剣道を極め、範士である祖父は少し離れたキッチンの窓を見つめる。裏庭で色づいてきた枝葉が木枯しに激しく踊る気配がある。
高校まで洋孝はサッカー選手として注目を浴びた。強豪校で高校1年生から活躍するが、3年生になる前に腰の痛みが慢性化する。たとえJリーガーになれたとしても、腰の痛みはプロの世界では誤魔化せない、と感じていた。
周囲の期待通り、Jリーグのチームや大学から声がかかった。しかしながら大学の一般受験を決断する。難易度の高い大学を目指す、と周囲に告げるとサッカー部の監督をはじめ誰もが冗談だと受け止め、「無理だ」と笑った。
母は「2年間、命がけで勉強してみなさい。結果がどうあれ、泣いても笑っても、それがヒロなんだよ。自分で新たなページを書き記してみなさい」と応援してくれ、家族が気遣うほどガムシャラに勉強する。目指した大学は無理だったが、2年の浪人を経て、第2志望の大学に合格した。
ところが大学に入ってはみたものの、将来の自分の像が浮かばない。サッカーがすべてだったことを痛感する。いったいどんなページを綴ればいいんだろう。栞(しおり)を挟んだまま、ページは動かない。サッカー同好会でボールを蹴ることだけがストレスの発散だったが、満たされない。
2年生のとき、高名な国際政治経済学者の講演が洋孝の大学で開かれた。後にその学者とは洋孝が勤めるバーの常連客として知り合うのだが、講演会場の大講堂で隣の席に座った女学生との出会いが栞の動くきっかけとなった。
講演が終わり、女学生に声をかけられる。「高1の時に全国大会の2回戦で決勝ゴールを決めたでしょう。兄がキャプテンでセンターバックだったの。とっても悔しかった」と言った。素敵な女の子からの予期せぬ言葉に戸惑い、「忘れたよ。昔のこと」と素っ気なく応えた。
すると「こっちは忘れていない」と怒る。洋孝が「お兄さんって、高萩さんでしょ。長身でガタイが良くて、クレバーで、しかもイケメン」と言うと、彼女は「ありがとう。兄を覚えていてくれて」と最高の笑顔をみせた。
これがきっかけで菜々子との交際がはじまる。彼女は4年生だったが、2年浪人していた洋孝とは同い年である。
菜々子は大学卒業後、すでにバイトをしている花屋に就職するという。花を愛しているから、と明快だった。法学部の彼女が「学問と仕事は違う。あなたは経済学部だからって、なにするの」と言ったのが洋孝には新鮮だった。
菜々子の兄もサッカーを断ち、実家の京都にいた。全国大会直前に父親を病気で亡くし、家族とともに生きる道を選んだ。高校卒業後、父親も経営者だった造園業を営む親戚の会社に就職し、庭師の修業を積んでいることを知る。
菜々子のワンルームの住まいに行くといつも花が飾られていたのだが、しばしば黒い丸っこいスタイリングの空き瓶に花が挿してあった。はじめて訪ねた日、「まさか、ウイスキー飲むの。オールド。俺のおじいちゃんと一緒だ」と言うと、「父が大好きだったから」と感情を抑えて静かに彼女は答えた。
二人でロックをよく飲んだ。あの頃はわからなかったが、オールドのしなやかな甘美さは、洗練されたシェリー樽熟成モルトがもたらすものだった。
寒くなってくると、「木枯しが吹いたら、お湯割だね」と菜々子は当然のように言う。お揃いの耐熱タンブラーに彼女にはオールド1に対してお湯を2の比率でつくってやり、洋孝はお湯が1.5の濃いめの比率を好んだ。
そしてバイト代でウイスキーやスピリッツをいろいろ買い込んだり、簡単なカクテルをつくっては彼女に試飲させたりするようになる。ある夜、「卒業したら、バーテンダーになれば」と菜々子が言う。洋孝は密かに愛読していたカクテルブックを見せ、「凄い職人。カクテルは芸術的だよ」と話すと、「著者のお店に行くか、連絡してみれば」と彼女が背中を押した。
洋孝が卒業して働きはじめるとすれ違いが多くなる。そして洋孝が修業の身となり、彼女を慕うほどに己の拙さ(つたなさ)を知る。さらには高い頂を仰ぐ、自分だけの世界がある菜々子に畏敬の念さえ抱いた。高校から華道の道に入り、英会話を学びつづけてもいた。すべては花とともに生きるため。洋孝の理解をはるかに超えた世界へ向かっていることを実感する。
真摯で気高く、菜々子自身が花開き咲き誇る予感がした。洋孝はすべてにおいて未熟で、自分と向き合うことに必死だった。いまの二人の関係は決してベストではない。「キミは自分だけの道を一途に歩むべきだ」と告げた。
菜々子は「わたしにも、断ち切るシュートなんだね」と声を震わせた。
祖父がお湯割を啜り、「そうだ、ヒロ、恋人は。イカシタ彼女がいたじゃないか」と触れないでほしい痛みを突いてきた。
「いま頃イギリスかもな。ガーデニング、園芸を学びたい、って願望があったから。極めつづける孤高の人。でも、彼女がいたから俺のいまがある」
祖父はなんだか悲しげな目をして再びキッチンの窓を見つめ「木枯し、止んだな」とポツリと言った。木の葉が一葉、ひらりと窓に当たり消え落ちる。
突然、菜々子がボトルに挿した一輪の赤いバラが脳裏に浮かび上がった。オールドの甘美さが無性に恋しくなり、洋孝はボトルに手を伸ばす。
(第8回了)