作・達磨信
小学一年生の一人娘は、いつになく丁寧に「おやすみなさい」と言って早々と自室に入った。眠りにつくはずはない。秋の夜長、娘は読書に親しむ。
夫が帰宅するまでは藍の時間だが、今夜だけは翻訳の仕事はしない。
リビングのチェストの上に飾ってある小さなフォトフレームに収まった写真に手を合わせた。実家の玄関先に並んで照れ臭そうな笑みを浮かべている着物姿の祖父母がいる。傍には二人が好きだったリンドウが花瓶に挿してある。
チェストの引き出しに仕舞っておいた帛紗(ふくさ)を取り出すと恭しく開き、包んであったショットグラスを手に取る。朱の帛紗は祖母が茶事に使っていたもので、高価な正絹である。グラスは祖父が「安物だ」と言っていたけれど、それぞれの値打ちはともかく、藍にとっては大切な宝物だ。
1年に二度、藍は祖父と祖母それぞれの命日に手にしては、二人に可愛がられた昔日の記憶を辿る。今日は祖父の命日だった。
藍は小学校に入るくらいまで、しばしば祖母の寝床に潜り込み、絵本を読んでもらった。隣の寝床では祖父が分厚い文芸誌を枕の前に置き、うつ伏せのまま小さなグラスに注いだウイスキーをチビリ、チビリと嘗めていた。
祖母は欠伸(あくび)をしはじめると、絵本を最後まで読み終わらないうちに目を閉じてしまう。すると祖父は鼻筋に皺を浮かべて藍に笑いかけ、枕元に置いたシェードのついた古めかしい電気スタンドにスイッチを入れると布団から起き上がり、寝室の蛍光灯を消すのだった。
そこから祖父の読書の時間がはじまる。笠の中の電球が照らしだすのは文芸誌とウイスキーのボトル、そして小さなグラス。亀甲文様のボトルは祖父の宝物のように煌めく。
藍は映画館にいる気分に浸ろうとする。子供向けアニメが上映される度に祖父母が連れて行ってくれた映画館は、胸が高鳴る場所だった。その高揚感が燈下によみがえり、想像をふくらませることができた。
燈下がスクリーンだった。先ほどまで祖母が読んでくれていた絵本の話が映しだされる。登場人物たちが浮かび上がり、物語を演じはじめるのだ。
亀甲文様のボトルは王様やお姫様のいるお城や村の大樹に、また鬼の住む山にもなる。ウイスキーの入ったグラスは家や家畜小屋、森にもなる。文芸誌は田畑や草原、あるときは街になり、祖父がページをめくると風雨となる。
ところが祖母の寝息が子守唄となって、気がつくと朝になっていた。祖父母は、自分の部屋に戻って寝なさい、と藍に言ったことがない。3歳違いの弟は毎晩のように母のベッドに潜り込んで寝ていた。幼い自分も母に甘えたいはずなのに、姉だからと我慢している藍が不憫(ふびん)だったのだろう。
今日の昼前、家業の味噌づくりを継いだ弟の有次から電話があった。「ジッちゃんの命日だね。角瓶はあるかい」が挨拶代りになっている。
まだ父が采配を振るっているとはいえ、江戸時代からつづく蔵元の次期当主となる自覚が、甘えん坊のおっちょこちょいだった有次を周囲から信頼される立派な職人へと成長させた。そして3児のパパでもある。
「今朝、父さん、母さんと一緒に墓参りに行って、花と角瓶のポケット瓶を供えてきた。姉さん家族のことを見守ってやってください、って祈ったよ」
「いつもありがとう。感謝します」
弟の気遣いが胸に沁みて、気の利いた返答ができない。
「それと、姉さんが翻訳した、刊行されたばかりのフランスの小説も持っていって、ジッちゃん、バッちゃんに最初の2ページほど読んで聞かせた」
墓石に向かって真面目な顔をして読んでいる弟の姿が浮かぶと、可笑しさはどこかへ追いやられてしまい胸が熱くなった。こころの岸辺からあふれた感情が涙腺へとさかのぼり、「うん、うん」としか声にだせない。有次は「どうしたんだよ、泣いているのかい。涙もろくなったのは歳のせいだな」と言う。
上手く言い返せなくて、なんとかやっと「バカ」とだけ言葉にできた。有次は「おっ、久しぶりに姉さんのバカが聞けた。サンキュー」と笑う。
何がサンキューなのかわからないが、藍は笑い泣きしてしまった。
夫の良直と結ばれたのも有次のお節介があったおかげである。
彼ら二人は幼馴染みで、高校卒業までずっと一緒の学校に通った。藍が東京の大学で4年生になったとき、彼らも東京のそれぞれの大学に入学する。姉弟の二人暮らしとなり、良直が度々訪ねてきては藍の手料理を一緒に食べた。
大学院を経て、藍は長くフランスへ留学する。帰国後すぐに大学の講師に就いたのだが、有次は「独り身で帰ってきたな、よーし」と喜ぶと、「良直に会ってくれないか。いい人ができそうになる度に、姉さんを慕う気持ちが強まるらしい。あいつもまだ独り身。とにかく会ってやってよ」と懇願した。
藍は子供の頃から一人の世界に浸る時間を大切にしていた。恋愛や結婚は他人事だった。良直はモテるはずなのに、なんでわたしなんだろう、と驚いていたら、有次が「小学校からだぞ。鈍感さが過ぎると、罪だよ」と怒った。
結婚観などまるでなかったが、何故か良直と暮すのが自然なように思え、初デートで藍のほうから「結婚しましょう」と彼に告げた。プロポーズまでの素敵な時間に想いを巡らしていた良直は、唐突な告白に唖然としていた。後日それを知った有次は笑い過ぎて、ほんとうに腹筋を痛めたという。
藍がフランスにいる間、祖父は何度か有次と良直と角瓶を飲んだことがあったらしい。「待っていないさい。キミは必ず藍と結ばれる」と根拠もなく良直に言ったそうだ。有次は角瓶をダシにして、祖父を懐柔していたようだ。
藍は準備していた祖父の使い古した電気スタンドをテーブルに置くと延長コードにつないでスイッチを入れ、リビングの灯りを消した。祖父のグラスに角瓶を注ぎ、しばらく燈下の輝きをみつめる。そして自分が飲む角ハイボールを用意するためにキッチンへと向かった。すると玄関ドアが開く音がした。
たちまち娘が自室から飛び出した。藍も玄関へと向かう。娘が「本を読んで聞かせてあげるから、わたしの部屋に来て」とパパに言っている。
「ただいま。今夜は角瓶の日だね。あとでハイボールつき合うよ」
良直はそう言って、小さな手に引きずられる。「おかえりなさい。先に手を洗ってちょうだい」と藍が返すと、娘が首をすくめ、パパを洗面所へと導く。
仕度してあった夫の夕飯を食卓に並べるために藍はキッチンへと戻る。リビングへ目をやると燈下のグラスがポツンと待ち侘びていた。「ごめんね、おじいちゃん。一緒に飲むの、もう少し待ってね」と語りかける。
不意に、結婚の決心を伝えたときの祖父の言葉が浮かんだ。「男前を待たせ過ぎだ。やっと良直くんと祝杯をあげられる」と言って喜んでいた。
そうだ、男前。祖父は自分のことを「日本のジャン・ギャバンだ」と言っていた。リビングの電気スタンドの灯りを見つめ、かつて一緒に観た、名優主演の古いフランス映画の記憶を辿る。ところがタイトルが出てこない。
藍は「ちょっと待って」と呟くと、スマホを手にして検索をはじめた。
(第7回了)