作・達磨信
みんなの明るく穏やかな表情がある。それだけで錦一は癒される。
テーブル席の錦一の対面には幼馴染の諒太がいる。彼は妻の体調を気遣い大企業を退職して昨年9月に東京から地元に帰り、市役所へ転職した。その横では彼の妻、彩が錦一のつくったお節料理を美味しいと喜んで食べている。パニック障害となり外出もままならない状況にあったが、こちらへ来て海を眺め、錦一家族と接しているうちに彼女本来の姿を取り戻しつつある。
彩の右隣には錦一の娘で中学1年生の杏実。アメリカ留学を経験した彩は一時期、外資系企業に勤めていた。その彼女に英語を学びはじめた杏実の成績は短期間に伸びた。いまでは年の離れたお姉さんのように彩を慕い、一方、子供のいない彩は、杏実のことを自分の娘のように可愛がっている。
杏実と向かい合った席には息子の小学5年生の太郎がいて、一人だけ錦一の特製オムライスを食べている。お節料理とそのあとの雑煮では彼のお腹は満たされない。今日は海に入らなかったが、錦一の子供時代そのままで、サーフィンしかアタマにない。他所では一丁前に、プロサーファーになるか、割烹料理店の4代目を継ぐか、悩んでいる、と言っているらしい。
太郎はたまに彩を海に連れ出しては自分のサーフィンの腕前を披露しているようで、彼女がやたら褒め上げるので有頂天になっている。
そして太郎の右横に妻の愛がいて、そのまた隣に錦一がいる。
正月3日の昼、ささやかな新年会を開いた。訳もなく笑みがこぼれてしまうような温もりのある日和だった。
諒太が「誰かに似ているって気になっていたんだけど、杏実ちゃんだ」と目の前に置かれた、陶製で兎のスタイリングのローヤル卯歳ボトルを見つめている。彩が「鈍いなー」と返すと、杏実が「最初にすぐ、彩さんがわたしに似ているって。でも、ちょっと複雑」と恥ずかしそうに小声で言った。
家族の前では減らず口の娘が、彩の前ではおしとやかになる。
「しかし、ローヤルはいいウイスキーだな。香りが華やかだし、味わいはとても滑らかだし。なんともいえない甘く深いコクがある」
諒太がロックグラスを手にそう言うと、「美味しければいいじゃん。それ以上の蘊蓄はよしてね」と彩が突っ込む。すると愛が「彩さん、兎にも角にもお正月ってことで、聞き流しましょう」と笑わせ、「さすが女将」と彩が応えた。
彩と愛はローヤルの水割りを飲んでいて、口が滑らかになっている。
ただし、ローヤルの卯歳ボトルは正月のお飾りとしてテーブルに置いてあるだけで、封を切るのは明後日、新年の営業初日となる。いま自分たちが飲んでいるローヤルはスタンダードボトルから注いだものだ。
今度はあらたまった口調で、「ところで、アミ、って名前、凄く素敵。愛さんが名付けたんでしょう」と彩が言った。それまで黙々とオムライスを食べていた太郎が「もちろん。父さんにそんなセンスはありません。それに俺なんかタローだぜ」と反応し、不意の発言にみんなが思わず吹き出す。
「太郎という名を、お母さんもお父さんも大好きなんだ。このウイスキーのローヤルって名前に品格があるように、太郎は誰からも愛される素晴らしい名前だと思っている」
錦一はそう諭すと、彩の質問に戻った。
「実は、愛がね、店の常連さんのお嬢さんのお名前を頂戴したんだよ」
「そうなの。常連さんの奥様に、お嬢さんの杏実さん、素敵なお名前ですねって、お伺いしたことがあったの」
愛が杏実という名の由来を語りはじめる。
その奥様は友里さんとおっしゃる。結婚されてご主人に連れられ、お義母様のご出身地である信州の杏の里を訪ねられた。ちょうど杏の花が満開で、あまりにも美しい景観にこころが震えるほどの感動を覚え、もし女の子を授かることができたなら名前は杏にしようと決めた。
さらにはご自分もそうだが、父方の家系には名前に友という字を頂く人が多い。そこで友だちという意味のフランス語の"amie"(アミ)を掛けた。
「友里さんに、もし差し支えなければ、わたしが女の子を授かることができたなら、杏実、と名付けてもよろしいでしょうか、とお願いしてみたの。そしたら友里さんが満面の笑みを浮かべて、嬉しいわ、友だちになりましょう、ってハグしてくださった。わたし、感激しちゃって、泣いちゃったんだから」
彩がしみじみと、「素敵なお話。あなた幸せよ」と言って、杏実の方へ顔を向ける。娘は「うん。杏実お姉さんは素敵な人。何度か会ってる。彩さんと同じように優しいんだよ。わたしも素敵な大人になりたい」と答えた。
「きっとなれる。愛さんの娘だもの。それにあなたはこの干支ボトルの兎のようにお澄まし顔して、いつも耳を澄ましている。耳がいい。英会話の上達も早いし、発音もいい。素敵な部分を伸ばしていけばいいのよ」
彩の言葉に錦一が胸の内で感謝していると、愛が娘に語りかけた。
「杏実は兎のように耳を澄ましてお勉強しているんだね。兎は、向上や飛躍の象徴なんだよ。そして、よい知らせをもたらす、って言われている」
愛がそこまで言うと、「そういえば」と話を戻した。
「そのご夫妻、明後日の営業初日の夜にお見えになるのよ。早い話、友里さんのご実家がこちらにあって、ご両親がうちの店の長い常連さんなの」
愛が再び説明をはじめる。友里さんは幼少期からフランスで育ち、お父様は画家の越水友一である。越水画伯は長いフランス生活から戻られて、ご実家をアトリエにされた。ただ、友里さんはご両親と一緒に日本に戻ることなく、アメリカの大学に留学された。留学中に知り合い、ご主人となったのが政治経済学の分野で著名な津嘉崎秀雄さんである、と話した。
「驚いたよ。越水画伯はうちの市はもちろん、日本の芸術界の至宝。そのお嬢さんとの話で、しかもご主人は、あの津嘉崎秀雄。そんなつながりがあったとは知らなかった。俺さ、津嘉崎さんの本を何冊も読んでいるんだ」と諒太が興奮している。「わたしもたくさん読んで学んだ」と彩も頷いている。
「縁は異なもの、なんだな。あいにく初日は予約でいっぱいなんだけど、そのうち紹介できる日が来るだろう。出会える機会はあるはず」
錦一の言葉に、「うん、そう願うよ」と目を輝かせて諒太が返す。
「この干支ボトルの封切りは津嘉崎さんご夫妻と決めているんだ。うちの店にローヤルが置いてあるのは画伯のお気に入りだからで、津嘉崎さんは岳父へ敬意をはらい、店ではローヤルをお飲みになる。実際は響ファンらしい」
錦一がそう言うと、諒太は興奮が冷めないようで、「干支ボトルはたしかに縁起物だ。兎が幸せな知らせを届けてくれたような気がする。しかし、人のつながりって不思議なものだな」と満足そうにロックグラスを傾ける。
諒太の顔を錦一は見つめながら、何よりも友人夫妻と自分の家族が明るい毎日を過ごせていることにいちばんの幸せを感じていた。
ローヤルの卯歳ボトルに、この一年の息災を願った。
(第9回了)