作・達磨信
そのメールはマスターにも送られてきていた。カウンター席では菜々子が勤めていた花屋のオーナーの良美が誠一にスマホの画像を見せている。
誠一にも菜々子から同様のメールがあったことは彼の余裕のある表情が物語っている。それを告げることなく良美の相手をしている姿を見て、マスターは自分にもメールがあったことは明かさないでおこうと決めた。
菜々子は5月、この店に真紅のバラを飾るとヨーロッパへと旅立った。誠一は彼女へのプロポーズのタイミングを逸して、哀れなほど落ち込んだ。マスターは、しっかりしろ、と憤りながらも知らぬふりを通した。
7月の終わりに帰国した菜々子は一度この店に顔を出すと、そのまま京都の実家へと向かった。大好きなお婆ちゃんの体調がすぐれなくて、しばらく傍にいたいということだったが、それ以降の身の振り方を語ることはなかった。
ちょうどその頃、誠一は店舗設計の仕事が忙しくてゆとりがなく、二人は出会えたのだろうか、とマスターは気を揉んだのだが余計な心配だった。忙しいはずの彼が数日後に明るい笑顔で店に登場したので察しがついたのだ。
あれからひと月半ほどが経っている。
良美は「桔梗(キキョウ)、キレイでしょ。よく撮れている」といいながらマスターにもスマホの画像を見せる。菜々子に代わり、多忙なオーナー自らがこの店のカウンターに花を活けるようになった。いまは良美の活けたダリアがカウンターに華やかな明るさをもたらしている。
誠一と菜々子が交際していることに良美は気づいてはいない。二人はこの店を通じての単なる知り合い、飲み友だちだと思っているようだ。
「9月も半ばを過ぎました。そろそろ桔梗はお終いでしょうか」
マスターは何気なく良美に聞いてみた。
「そうね、そろそろかな。地域によっては10月に入っても咲いているみたいだけどね。でもこの桔梗の画像は嬉しいな。魔除けというかお守りになるかもしれない。待ち受け画面にしちゃった。ほら」
良美は誠一にスマホを見せながら語りつづける。
菜々子が撮影した桔梗は、京都のパワースポットとして名高い神社に咲いているもの。彼女は近くに所用があって立ち寄り、お参りしたらしい。その神社の神紋が桔梗で、陰陽道で魔除けの呪符として知られる五芒星と同じようにシンボルなんだと歴史を踏まえて丁寧に説明している。
良美はマスターより10歳ほど年上で60をいくつか超えているはずなのにとても若々しく、可憐な少女的な印象がありながら時に爽やかなボーイッシュな面も表出する。そして菜々子にも同じような不思議な魅力がある。この師弟は似た者同士、互いに引きつけ合っているようだ。
マスターは良美の話に耳を傾けながらアイスピックを使い、グラスの大きさに合わせて氷を丸く成形する。素早く二つの丸氷をつくり上げたのは良美と誠一に是非とも飲ませたいウイスキーがあるからだった。
二つのロックグラスに丸氷をはめ込むとウイスキーを注ぎ、バースプーンで軽く氷を触ってウイスキーと馴染ませ、二人の前に置いた。
「このオン・ザ・ロックは、わたしからのサービスです」
マスターの言葉に二人は同時に「どうしたの」と声を発した。
「画像の濃い青紫色した桔梗の花弁は5枚。桔梗紋とか五芒星のお話を伺ったら、もうこのウイスキーをお飲みいただくしかないと。碧です」
マスターはこう言って、5角形の碧Aoのボトルを二人の間に置いた。
「5弁の桔梗と5大ウイスキーをブレンドした碧を結びつけたんですね」
誠一が即座に反応した。すると良美が「なるほど。でも氷が丸いっていうのも、なんか訳があるんでしょう」と悪戯っぽい目をして聞いてきた。
「いろいろなことが丸く治りますように、との気持ちからです」
誠一と菜々子が結ばれることを願うマスターの祈りは胸にしまった。
「碧はワールドウイスキーと謳っています。いま世界がいろいろと病んでいますよね。生まれた国も酒質も異なる原酒をブレンドしたこのウイスキーのように、地球全体がまろやかに落ち着いて欲しいとの願いもあります」
良美はマスターの言葉に頷くと、ゆっくりと碧Aoのロックを口にした。誠一も同じように口にする。
「そうか、碧か。複雑な個性が織り成す素敵なウイスキーの花束なんだって実感した。いろんなことがあるけれど、地球はひとつ、ってことね」
そう言って笑顔でサムズアップする良美に、「菜々子さんに感謝です。素敵なウイスキー・タイムになりました」とマスターは応えた。
「そうね。来月には菜々ちゃんが戻ってくるから、碧を一緒に飲みながら今夜の話をしなくっちゃ」
菜々子が戻ってくる。良美のその言葉にマスターは驚きながら誠一のほうに目を向けると、彼はキョトンとした顔をしたまま声を発せないでいる。どうやら彼も知らさられていなかったらしい。
「どうしたの。二人ともそんなに驚いて。菜々ちゃんのお婆さま、順調に回復されているみたい」
「それで、戻ってくるって、ほんとうですか」
言葉が出ない誠一に代わってマスターが聞いた。
「うん、今日決まったんだ。あんなセンスのいい子はいない。わたしが彼女を簡単に手放す訳ないでしょう。素晴らしい仕事をするからね」
多くの従業員を抱え、質の高いビジネスをしているオーナーの評価は確かであろうし、マスター自身、菜々子のセンスに惚れ込んだ一人でもある。
そこへ突然、それまで黙っていた誠一が、チカラが抜けたような、喜んでいるのか怒っているのか理解しがたい声を発して言った。
「もう、最初に言ってくださいよー」
「なになに、ええーっ、あなた、もしかして、あのツンデレ菜々ちゃんと」
誠一は良美とマスターの顔をちらっ、ちらっと見て、コクンと頷く。
「あらま、驚いた。もしかして、あなたにもこの画像が届いていたのね」
良美は参りましたといった様子で碧Aoのロックをひと口飲むとつづけた。
「また彼女が遠くに行かないようにしなくっちゃね。ガーデニングを学びに行くといって、いつ日本を飛び出すかわかんないから。ほんとよ」
菜々子がヨーロッパを旅したいちばんの目的は、最後にイギリスへ行ってオープンガーデンを探訪することだったらしい。その話に誠一は不安げな顔を見せる。良美はそれを察知すると笑いながら言った。
「それはそれとして。知ってるかな。桔梗の花言葉は、永遠の愛」
たちまち誠一の顔がだらしなくゆるんだ。
同時にマスターの脳裏に鮮やかな桔梗の花が浮かび、いまの彼の表情と対比してしまう。するとなんともいえない腹立たしさを覚えた。
まったく、情けない。しかしながら碧Aoと丸氷の話をした手前、気持ちを丸く収めるしかない。すぐにでも二人のことを桔梗の画像に祈りたくなった。
(第6回了)
絵・中村しし 写真・児玉晴希