Whisky Smiles Gently ショートストーリー ウイスキーは物語を映す Short Story

第5回
「処暑の娘」

作・達磨信

 ソファーに脚を伸ばして本を読んでいると、娘が声をかけてきた。
「休日の夕方は必ずそこで、その姿勢で本を読む。生活のリズムをまったく変えない。凄い人だよ」
 そう言いながら膝丈の高さのテーブルを挟んだ対面の一人掛けソファーに座った。わたしは曖昧な返事をして活字に集中しようとしたが、久しぶりの父娘二人だけの時間に緊張する。妻は友人と観劇に出かけてしまった。
 実のところ、娘も出かけるものとばかり思い込んでいた。挙式が1ヵ月後に迫っていて何かと準備に忙しいはずである。ところが彼氏の急な海外出張のためにこの週末は予定変更となったらしい。
 娘に目を向けると、テーブルの上のボトルを見つめている。「どうした」と聞くと、彼女はフフッと声をもらし、「読書のお供も変わらない。ウイスキーはいつも響、そしてロック」と言う。子供の頃から目にしてきた変わらないスタイルを称えている訳ではなさそうだが、呆れているようでもないらしい。
 ボトルから目を離すことなく、「ねえ、外でも響しか飲まないの」と聞いてくる。一瞬、まともに答えようとしたが、「まあ、そうだな」とごまかす。
 バーではシングルモルト山崎ばかり飲んでいた時もある。スコッチの期間もあった。いまはメーカーズマークにはまっている。メーカーズマークは開発者の妻、マージーの献身と聡明さに惹かれた面もある。
 マージーに自分の妻を重ねてしまうのだ。妻の献身があるからこそ、国際政治経済学の分野で実績を積むことができ、大学で教え、論文や著書が海外で評価を得られているいまの自分がある。
 彼女の英語、フランス語はネイティブも感服するほどで、他にも日常会話程度なら数ヵ国語をこなす。そんな彼女が日々の世界動向を丹念にチェックして、気になる情報をわたしにインプットしてくれている。
 マネージメントも見事だ。決して世の中に迎合しない。メディアへの露出を極力抑え、分析と考察、執筆の時間を十分取れるよう配慮してくれる。
 のろけるつもりはないが、娘の前で勢いづいて妻への感謝に話が発展しそうでためらったのだ。また反対に、娘相手にウイスキーの本質や、自分にとってのウイスキー、といったひとりよがりの話をするつもりもなかった。
 ウイスキーは自分というものを意識させてくれる酒だ。ひとり静かに自分と向き合える。過去を反芻し、現在を見つめ、未来へと想いを馳せる。そんな時間を過ごすためには、お気に入りのウイスキーでなければならない。
 自宅で響しか飲まないのは、いつもの時の流れを崩したくないからだ。飲み飽きない美味しさだけでなく、オン・ザ・ロックで開く香りの花束の華麗さと熟成感が好ましく、優しく包み込んでくれるような安心感がある。
 いつもの自分であるために、いつもの響を飲む。

 娘が「ああ、もう氷が溶けているじゃん」と言って立ち上がり、キッチンへと向かった。戻ってくると氷の入った新たなグラスをふたつテーブルの上に置いて、「わたしもごちそうになります」とボトルを手にしてゴールデンブラウンの液体をそれぞれのグラスに注ぎはじめる。
 娘と二人だけでウイスキーを飲むのははじめてのことだ。慌ててわたしは身を起こしたのだが、彼女はおかまいなしに軽く乾杯の仕草をして、「夕飯つくるね。食材は揃っているから、ある程度、ご要望にお応えできる、かな」と茶目っ気たっぷりに言う。彼女の気持ちだけで、わたしは十分満たされる。
「いいよ、つくらなくて。少し飲むなら、しばらくして寿司を取ろう。響をゆっくりと味わいなさい」
「ほんとう、いいの。ラッキー。でもサラダくらいは用意するね」
 喜んでいる娘の顔をちらっと見て、わたしもグラスに手を伸ばす。
「響って香りがとてもいいわね。この感じを甘美っていうんでしょう。なんかスーッと心の隙間に沁み込んで、優しく、いい子いい子してくれる」
 心の隙間、という娘の言葉が気にかかった。妻が最近、「あの子、マリッジブルーに染まっちゃったみたい」と言っていた。
「香りも味わいも、すべてに最高だよ」
 わたしはそう言いながら、妻を称える余計な話をしなくてよかった、と安堵した。ところが、そこから会話が弾まない。息苦しさを覚え、エアコンのリモコンのスイッチを切り、リビングの窓を開け放すために立ち上がった。
 外は黄昏に近づこうとしていた。妻とそっくりの抑揚で「この時間になってくると、風が少し涼しく感じられるようになったわね」と声が届く。
 ソファーに戻り、響をひと口味わったわたしは「暦では、もう処暑(しょしょ)だからな。二十四節気って知っているかい」と娘に投げかけてみた。
 言葉は知っているけれど、詳しくは、と彼女は言う。これで間を持たせられると再び安堵する。
「そうだ。まさにこの響のボトル。細かな縦のカットがあるだろう。これは1日の24時間や二十四節気を表現したもので、24カットあるんだ」
 すると彼女はボトルを手に取ると、カットを数えるかのように見つめはじめる。わたしは1年の二十四節気について話した。そして一節気をさらに細かく初候、次候、末候と三等分した七十二候というものがあると説明すると興味を示し、「ところで、処暑って季節の何を意味しているの」と聞いてきた。
「暑さの峠を越す、暑さがやわらぐ頃のことをいうらしい。いまは処暑の初候にあたる"わたのはなしべひらく"。漢字で書くとこうなる」
 そう言ってわたしはテーブルの上に指で"綿柎開"と書いた。
 娘は首を傾げ「これもまた難解な言葉ね。綿がどうしたの、何をいっているの」と再び聞いてくる。幼い頃、どうして、どうして、と繰り返し質問していた愛くるしさがよみがえり、頭がジーンと痺れるような感覚に包まれる。
 柎(はなしべ)は花のガク(萼)のこと。綿の実がはじけてガクが開く頃のことで、開くと白い綿毛がフワフワと生まれでる。こう説明して、「綿はやがて糸となる。木綿の糸に。それが織り込められ布になる」と答えた。
 彼女は「糸になるのか。フーン」と、納得しているのか、していないのかわからない顔つきのまま、何か思いつめたような眼差しで遠くを見つめた。そして響のボトルに目を戻しながら口を開いた。
「そうだよ。はじけて新たに生まれ変わる、季節は移り変わっていく」
 自分に言い聞かせているかのようだった。
「固い実だな、いまのわたしは」
 ぽつりと彼女は呟き、ちょっと苦笑気味に口角が上がったがすぐに表情は変わり、一度息を吸い込むと吹っ切れたように微笑んだ。
「綿毛が生まれ、それが糸になるのか。処暑ってどのあたりだろう」
 そう言いながら24カットの細いひとつの面を、人差し指でそっと上から撫で下ろした。
 娘の指が細く美しく伸びやかなことに、わたしははじめて気づいた。

(第5回了)

絵・中村しし 写真・児玉晴希

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