Whisky Smiles Gently ショートストーリー ウイスキーは物語を映す Short Story

第4回
「テイク・オフ」

作・達磨信

 飽くことなくライディングしつづけた。最高潮といえるオーバー・ヘッドの波に無心に挑んだ。3年ぶりながら感覚は鈍ってはいない。
 無音ではないが、波の音やボードが波を切る音がどこか彼方から聞こえてくるような、非日常の世界に浸り切る。
 諒汰は心地よい疲労感に満たされながらボードにまたがり沖を眺めた。指笛が聞こえたような気がして右斜め後方に顔を向けると、錦一が腕をクロスして終わりの合図を送ってきた。腕時計は7時を示そうとしている。
 今日は大潮の満潮と日の出の時間がほぼ重なる。日の出とともに海に入り2時間半近くが経っていた。平日ながら波待ちエリアに少しずつ人が増えはじめている。いまこの時間も絶好のオフショア(陸から海へ吹く風)だ。
 諒汰と錦一は幼馴染で、小学5年生から本格的にサーフィンをはじめた仲である。中学卒業までずっと一緒に波に乗った。違う高校にすすむと、諒汰は休日に気分転換でたまに海へ出た。すると決まってパドリングしながら錦一が近づいてきて、「リョウ、勉強やんなきゃダメじゃん」と大声で叫ぶ。そして束の間、二人は中学時代と変わらない時間を過ごした。
 錦一は家業の割烹料理店の三代目となることを決めていたので、高校を卒業して板前修業に出るまでのサーフィン三昧を家族は黙認していた。
 諒汰はラストの波待ちをしている錦一を見つめる。40歳を迎えようとしているいまも昔と変わらない誠実さで接してくれる友に、感謝の念を送った。

 目の前に海が広がる二人が幼い頃から暮らし、遊んだ場所から少しだけ離れた、古都とも呼ばれる街に錦一の店はある。
 3ヵ月前の4月、諒汰は親戚の結婚式出席のために帰省し、その夜、閉店後の店を訪ねた。二代目の錦一の父や従業員たちの姿はすでになく、錦一夫妻が笑顔で迎えてくれたのだが、友の目は鋭く、「おい、どうした。ちょっとやつれてないか。仕事が大変なのか」といきなり探るように言ってきた。
 カウンター席に二人座り、まずはハイボールのグラスを交わした。
「キンちゃん、このウイスキー、スーッと心地よく入るね。優しさがある」
「そうだろう。ハイボールは知多にしているんだ。料理の味を引き立ててくれるキレイなウイスキーだから、うちの店では重宝しているんだよ」
 錦一の奥さんで女将の愛ちゃんが「披露宴からそんなに時間が経っていないから、まだお腹がこなれていないかな。よろしければどうぞ」と料理を運んできた。時間を見計らって用意してくれていたのだろう。しらすとみょうがときゅうりの酢の物、筍とふきの煮物、そして鰆の焼き物が並んだ。
 ここしばらく諒汰は食欲が失せていた。披露宴での料理にもあまり手をつけていない。ところが知多ハイボールと錦一の料理が胃袋を目覚めさせた。
 すべてが味わい深い。箸もグラスもすすむ諒汰を見て、「もしかして、腹が減っていたのかよ」と錦一が笑う。そしてすぐに「リョウ、なんだかちょっと変だぞ。なんかあったのか」と聞いてきたのだった。 
 年明けから諒汰の妻は外出が難しくなった。電車に乗れない。買い物に行くことさえ難しい。不安感からの発作もある。パニック障害だった。
 二人に子供はいない。それだけにお互い真摯に仕事に向き合い、それぞれの会社でそれなりのポジションを与えられている。仕事は順調だった、と妻の同僚から聞いた。夫婦仲もとくに問題はなかった。それなのに、なぜ。
 妻に何もしてあげられない無力な自分がいて、気が紛れる日がない。
 そんな諒汰の事情を知ると、錦一は意外なことを口にした。
「奥さん次第ではあるけれど、リョウ、こっちに帰ってくる気はないか」
 そう言うと、地元の市役所の人材募集の話をはじめた。
 市では広報活動に力を注いではいるが、デジタルも含めて上手くコントロールできる人材を探している。観光や地域ブランドのPRなど広く情報発信しているし、外国人スタッフも採用して海外対応もしているなかで、俯瞰して眺めることができるプロデューサー的人材を必要としているという。
「愛がその話を耳にして、大企業の宣伝部にいるリョウなんか適任なんだろうけどな、いまの立場からの転職はあり得ないか、って話していたんだ」
 愛ちゃんがハイボールのお代わりを持ってくると、「そういえば、かなり前にリョウさんの奥さんが、自分は泳げないけど、海を見ているのが好き。何時間でも眺めていられる、って話してくれたことがあるの」と言う。
 妻は隣の市の出身で、同じ沿岸地域で生まれ育った。愛ちゃんは「身勝手な願いを許してね。もしも帰ってこられたら、奥さんの調子がいいときに娘の勉強を見てくだされば最高。もう中学生なの。あっ、下のヤンチャ坊主はこの人のミニチュア版。サーフィンができるから凄い」と笑わせる。
 二人は落ち込んでいる諒汰を真剣に気遣い、気持ちを和らげようとしてくれている。感謝で胸を熱くしながら、これまで、故郷で生活する姿など一度もアタマをよぎることがなかったと気づき、いろいろな想いが錯綜する。
 こころを鎮めるかのように諒汰は二杯目のグラスに手を伸ばした。
「いい香りがすると思ったら、木の芽と、もしかして山椒の粉かい」
「そう。山椒の実をミルでほんの2回転ほど振りかけてある。知多だから楽しめる味わいなんだ。評判いいんだよ。夏は生姜のスライスに変わる」
 そしてイタズラっ子だった頃の顔をよみがえらせて錦一はつづけた。
「次は夏に来て飲みなよ。3年前かな、あの時みたいにサーフィンしよう。休暇を取ってさ、実家じゃなくて、また俺の家に泊まって馬鹿話をしよう。たまには俺が店にいないほうがいいんだよ。親父も遠慮なく仕切れるだろうし」
 諒汰は山椒入り知多ハイボールを口にする。
 弾ける小珠にそよぐ清々しい香りは、波とたわむれる潮風を想わせた。そして"帰っておいで"とささやき、テイク・オフへと誘っていた。

 早朝のサーフィンを終えた二人は、ビーチの階段を上がってすぐの駐車場脇にあるシャワーを浴び、ボードを抱えて錦一の家へとつづく坂道を歩く。
「リョウはジムで鍛えているだけのことはあるな。波のボトムからトップに駆け上がってのターンなんか、久しぶりなのにいきなりやってのけちゃう」
「幼馴染がとろいと、伝説のサーファーの面目をつぶすことにならからさ」
 錦一は「頼むから、やめてくれ」と苦笑し、そしてしみじみと言った。
「俺は嬉しい。こうやって昔のようにサーフィンができて、話ができる。よく市役所への転職を決心したよ。絶対に帰ってはこない、って思っていた」
「知多ハイボールのおかげかな。俺たち夫婦を導いてくれた」
 錦一は「ハイボールがなんだって。訳がわからん」と口を尖らせる。その表情にヤンチャな幼顔の面影が重なり、何故だか諒汰の目頭が熱くなる。こらえようとして振り向くと、夏の海は子供の頃のままに眩しく煌めいていた。
「テイク・オフのとろい奴は、波に乗れないじゃんか」
 胸の内をはぐらかした声は海に向かう風にそよぎ、微かに震えていた。

(第4回了)

絵・中村しし 写真・児玉晴希

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