作・達磨信
重い仕事にやっと目処が立ち、伸之はしばらくぶりに行きつけのバーへ顔を出す。すると彼の背後につづくようにあの人も入店してきた。
50歳前後の常連客で、鋭い眼光の強面、長身の逞しい体躯にいつも仕立てのいいスーツを着こなし、ただならぬオーラを発している。マスターとも滅多に会話することなく、ひたすらメーカーズマークを飲みつづける。
カウンター席で空いていたのは隣り合う2席だけだった。マスターの右腕のヒロさんは、その常連客のことを伸之が避けているのを知っていて、できるだけ離れた席へと導いてくれているが、今夜はなんとも間が悪い。
ヒロさんは伸之が大学時代に所属していたサッカー同好会で入れ違いの先輩にあたり、卒業後のOB会で親しくなった兄貴的存在だ。バーの世界を知らなかった伸之に「気軽に顔を出しなよ」と勤めている店に誘ってくれた。
通いはじめて間もなく、「酒の味がわからなくなるほど緊張してしまう人がいる」とヒロさんに告げると、「あの方はとてもジェントルマン。高名な大学教授だよ。知らないのかい」と返されたが、まったく信じられなかった。
ヒロさんらしいジョークと受け止めた伸之は、鉄壁のセンターバックのような常連客ことをメーカーズマーク教授と胸の内で呼ぶようになった。
今夜のヒロさんは意地悪で、「おや、お知り合いだったんですか。お二方ともメーカーズマークのソーダ割でよろしいですね」とさらりと言い放つ。
メーカーズマーク教授は「こちらの方にご迷惑ですよ」と驚くほど柔らかい口調で応えた。ヒロさんは「実は彼、わたしの友人でして」と笑顔で返しながら、伸之には「メーカーズマーク、はじめてでしょう」と投げかける。
伸之は緊張のため「はい、では、わたしも」と応じてしまう。するとヒロさんは教授に向かい、「とても状態のいいミントが入っています。オン・ザ・ロックになさる前に、ミントジュレップはいかがでしょう」とすすめた。
「それは嬉しい。いつの間にか、ふさわしい季節になりましたね」
こう言いながらも、教授の目元や?がゆるむことがない。ヒロさんは、キミも飲むんだよ、という目線を伸之に送ってきた。腹を据えただけでなく、ミントのワードに引き寄せられ、伸之はコクンと頷く。
教授は「付き合わせることになってしまい、申し訳ありません」と頭を下げる。他者を寄せつけそうもない見た目とのギャップに戸惑い、大学教授という職業をいまだに疑いながら、伸之は勇気をだして質問してみた。
「メーカーズマークがお好きなんですね」
「ここ何年か、バーではほとんどこればかり飲んでいます」
味わいだけでなく、好きになった別の理由も教授は話してくれた。
「聡明な女性のストーリーを知って、愛着が深まりました。メーカーズマークの味わいを生んだのはビル・サミュエルズ・シニアという人ですが、ブランド名にロゴ、ボトルのスタイリング、赤い封蝋からラベルのデザイン、それらすべてが彼の妻、マージーの手によるものです」
教授は母親の女手ひとつで育てられ、大学へも進むことができた。そして社会人となり家庭を持ったが、いまは妻に支えられて仕事ができている。これまでの人生、女性に生かされているような気がしている、と表情を変えることなく穏やかに話す。しかしながら、具体的な職業を明かすことはなかった。
ヒロさんがつくってくれたメーカーズマークのソーダ割にはオレンジピールが絞り入れられていた。その香りに誘われてひと口含むと、しなやかな甘みのある爽快感が口中に広がり、これまでの緊張がほぐされていく。
やがて伸之も話はじめる。北海道のオホーツク地域の内陸の町で育ち、裕福ではなかったが、両親が懸命に働いて東京の大学へ進学させてくれた。卒業後就職して5年が経つ、と聞かれもしないのに語っている自分がいた。
奇妙な夜だ、と感じているところへメーカーズマークをベースにしたミントジュレップが登場する。ストローで吸い込む。鼻腔の奥にミントのクールな刺激が伝わると、ふくらみのある柔らかい甘さと清涼感に満たされた。
「いかがですか。スイート&クール。素敵な味わいでしょう」
教授がそう話しかけてきたのだが、伸之は言葉を失ってしまう。「どうかなさいましたか」と教授は怪訝そうに声をかけてきた。
母の姿と子供の頃に味わった手料理が脳内でフラッシュバックしたからだった。伸之の故郷は薄荷、つまりミントで知られた町である。
母はいまもミントを摘み、乾燥させる仕事をしている。それが蒸溜されてミントオイルとなり、さまざまな製品に使われていくのだが、一日の仕事を終えて帰宅した母はミントの濃い移り香を纏っている。
疲れを見せることなく母が手早くつくってくれた料理で、伸之が好物の二品がある。ひとつはミントの葉の天ぷら。食感や味わいは多少違うものの、春菊の天ぷらに似ているといえるだろう。
もうひとつはクリームパスタ。生クリームにパルメザンチーズとチキンコンソメ、それに胡椒を少量加え、パスタの茹で汁で濃度を調節しながら少し煮詰め、15葉程度のミントを千切りにして散らし、パスタに絡めたものだ。伸之はとても洒落た贅沢な料理を食べている気分になったのを覚えている。
東京での一人暮らしで、教わったレシピ通りに何度か試してはみたが、簡単なのに母の味にはいまひとつ届かない。最近は試そうともしていない。
郷愁から高ぶりそうになる感情を抑え、真っ正直に伸之は話す。教授は時折ミントジュレップを口にし、恐い顔をしたまま静かに聞いてくれている。
伸之が話し終えると、教授はストローを上下させて飾られていたミントの葉をグラスの中に押し込んだ。クラッシュドアイスがシャカシャカと心地よい音を立てる。教授はゆったりと味わうと、おもむろに口を開いた。
「いいウイスキーは、人を正直にさせます。とても素敵なお話を聞かせていただきました。ありがとう」
そして少し間を置いて呟いた。
「あなたも、女性に生かされていますね」
次の日曜日の朝、伸之は朝食を食べ終えるとサッカーの練習に行く支度をした。土日だけメンバーが集まる社会人の弱小チームでプレーしている。
出かけるまで少し時間の余裕があり、テレビのリモコンを手にした。いきなり画面に表れたのは、なんと凄みのある顔のアップである。伸之は驚きのあまりひっくり返りそうになり、床にへたり込んで見入ってしまう。
円安と日本経済がテーマの政治討論のようで、メーカーズマーク教授が世界経済の今後の動向を極めてジェントルマンの穏やかな口調で解説している。
呆然としていると、不意に鼻先をくすぐられる気配がした。ヒロさんのミントジュレップの香りがよみがえり、母の姿が瞼に浮かんだ。
(第3回了)