Whisky Smiles Gently ショートストーリー ウイスキーは物語を映す Short Story

第2回
「五月のバラ」

作・達磨信

 扉を開けて思わず立ち竦んだ。入り口に近いバーカウンターの端に、深紅の花弁が幾重にも重なっているバラが驚くほどのボリュームで飾られている。
「バラを飾ったら、しばらく旅にでます」
 菜々子はそう言った。わかってはいたものの、ついにその日がやって来ると、誠一の胸の内は淋しさと焦燥とがないまぜになった。
 カウンター席に着いてもバラに視線を送りつづけている誠一にマスターが声をかける。
「圧倒されるでしょう。菜々子さんの大サービス。何本あるの、と尋ねても教えてくれない。香りが強くてごめんなさい、とだけ」
「なるほど、五月のバラ。季節感にあふれた置き土産ですね」
 誠一は胸の内を見透かされないように耐えて明るく応え、ジン・トニックをオーダーする。
 マスターは50歳過ぎで、彼とは20ほどの年齢差がある。親戚のおじさんのように気さくに接する仲ではあるが、プライベートに関しては互いに深く立ち入らない。
 菜々子は花屋に勤務しながらブライダルやイベント関連のフラワーアレンジメントをしている。マスターの懇願で、3年前からこの店に花を活けるようになった。
 マスターが知人の祝い事に花を贈ろうと、常連客おすすめの花屋に出かけたところ、たまたま菜々子が接客にあたり、素敵な花束を創り上げてくれた。マスターは彼女のセンスに惚れ込んだのである。
 菜々子がプライベートでこの店に顔を見せるようになったのは1年ほど前のことで、誠一とは少しずつ会話を交わすようになる。
 二人には感覚的に通じ合うものがあった。菜々子が誠一のひとつ歳下で年齢が近いこともあるが、彼が店舗設計の仕事をしていることから空間デザインの話題で盛り上がったりもする。
 驚くことに菜々子は誠一よりもウイスキーを飲みこなしていた。そしてシングルモルト山崎を愛飲している。誠一が「山崎が好きなんだ」と聞くと、彼女は「エステリーな香りが好きなの」と答えた。
 誠一はエステリーという言葉が理解できなくて問い返すと、「果実のような、花のような、華やかな香りのこと」と彼女は教えてくれた。
「花と接している人は、やはり繊細な香りに敏感なんだね」
「そうなのかな。自分ではそんな意識はないけれど。でも、山崎には、山崎にしかないエステリーさがある。スコッチのエステリーとは、ちょっと違う。日本的な気品がある。そこが好き」
 こだわることもなく、マスターがすすめるウイスキーをその日の気分で飲んでいた誠一はあらためて山崎を味わい、大いに納得する。
 あるとき誠一とマスターが、山崎を花にたとえるならば、と菜々子に尋ねたことがある。無茶振りしないで、と言いながらも彼女は応えた。
「わたしにとって山崎は花の女王、バラ。それも赤いバラだけの香りの花束」
 菜々子は「わたしの勝手なイメージだから」と言って、恥ずかしそうに肩をすぼめた。
 バラが好きなのは、子供の頃からの愛読書、サン=テグジュペリの『星の王子さま』の影響が強いという。とくに王子との絆を結んだキツネが告げた真理と、作者自身が描いた挿絵のなかの赤いバラには特別な思い入れがあると彼女は話してくれた。
 そのため誠一は小学生のときに途中で投げ出した『星の王子さま』を慌てて読む。マスターも密かに、久しぶりに読み返した。

 菜々子は西ヨーロッパを巡るらしい。誠一は、期間はどれくらいなのか、旅から戻ったら元の仕事に戻るのか、と彼女に尋ねてはみた。とても申し訳なさそうに、何も決めてはいない、としか答えてくれなかった。
 誠一は告白のタイミングを失った。王子がバラの花に別れを告げて小さな星を旅立ったように、菜々子もバラを置いてどこか遠くへ出かけてしまうのか。 
 これまでこのバーで過ごした時間、菜々子の活けた花が視線の止まり木になっていたことに彼はようやく気づく。見つめていると、飾らない、正直な自分になれた。これから先は菜々子ではない誰かが活ける花が視線の止まり木になるのだろうか。

 マスターはいつも通りに誠一に接している。早くに二人が交際していることに気づいていたが、知らぬふりを決め込んでいた。しかしながら互いに不器用なために、ここにきてまったくもって面倒なことだ、とじれったい。
 とくに誠一を見ていると若い頃の自分の不甲斐なさがよみがえり、男は脆い、恋となると何故か幼稚な臆病者になってしまう、と胸の内で苦笑する。一方で、いまの時代、淋しくなればスマホにメールすればいいじゃんか、と言いたい。
 菜々子はとても真面目だ。将来の自分の像が想い浮かばなくて苦しんでいるようにみえる。仕事にまっすぐ過ぎる人が陥る、不可解な心理ってやつじゃなかろうか、とマスターは受け止めている。
 未来への選択肢もいくつか見えてきているはずなのに、恵まれた環境のなかで伸び伸びと仕事をやってきたがゆえに漠然とした不安が燻りはじめたのではなかろうか。そこへ誠一という存在が登場してきた。
 とはいえ、さようならを告げるならば、五月のバラを罪つくりなものにはしない。ここまで濃密な香りを残したりはしない。山崎を飲みながら待っていて、と彼女は伝えているのだろう。
 『星の王子さま』のなかでキツネが王子に告げた"きみは、きみのバラに、責任がある"の一節にたどり着かない誠一がもどかしい。
 それでもマスターは穏やかに、彼にこう投げかけた。
「このバラは完全にシングルモルトの世界だね。彼女の好きな山崎そのもの」
 すると、しばらく沈黙のときが流れた。やがてジン・トニックを飲み干し、視線をゆっくりとマスターへ戻した彼の目に光が戻ったような気がした。
 照れ臭そうに「山崎をください」と誠一はオーダーした。マスターは頷いて「はい、いつものね」とあくまで自然に応える。
 ラベルの山崎の書。崎のつくりが寿であることを誠一は知ってはいないだろう。寿の文字を崩して奇に模してある。ひと山越えれば、寿が待っている。マスターには確信めいたものがあった。
 積み重ねた時間が、かけがえのないものになっていく。不器用な二人はまだ熟成の途中にいる。

*参考文献/『星の王子さま』サン=テグジュペリ著・河野万里子訳・新潮文庫

(第2回了)

絵・中村しし 写真・児玉晴希

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