もっと短くすべきだ、との苦情が殺到。結局、スカート丈は短くなり、膝までの長さのスカートが標準化する。
フラッパーたちにとって“慎み”は死語となってしまった。薄物のドレス、半袖、ついにはノースリーブが登場。髪を短くし、クロッシュと呼ばれる帽子を被るのが流行する。そして水着が大きく変わっていく。
水着の肌を覆う面積が少しずつ減少した。腕が表れ、肩も出たかと思えば、腿まで露出するようになった。
過去のモラルの束縛から解き放たれ自由に振る舞いはじめるのと同調して、女性の社会進出がはじまる。1920年に女性が参政権を得たことも大きい。速記者、タイピスト、学校の先生に女性が就きはじめ、デパートガール、スチュワーデス(現キャビンアテンダント)といった新しい職業も生まれた。職業婦人もこの頃から増加している。
さて話を元に戻そう。クララ・ボウはサイレント映画のスターで終わってしまい、スクリーンからたちまちにして消え去った。トーキング・ピクチャー、映像と音声が同期したトーキーの時代は皮肉にもボウの人気と同調するようにやってきたのだ。サイレント映画女優としては成り立ったが、トーキーとなるとブルックリン訛りの強いボウでは客は集まらなかった。
ジョーン・クロフォードは違った。1929年に彼女自身のトーキー第一弾『ハリウッド・レビュー』で見事なダンスを披露し、歌までもこなしてさらに人気が高まる。30年代に入っても多くの傑作に出演してグレタ・ガルボらとともに女優としての地位を確立していった。それでも順風満帆とはいかず、30年代後半からハリウッドスターの世代交代により干されるが、1945年に出演した『ミルドレッド・ピアース』でアカデミー主演女優賞を獲得して復活する。
私生活は波瀾万丈だった。貧しい母子家庭に育ち、成長してウエイトレスをはじめ職を点々としながらダンサーを目指した。1923年、18歳のときにチャールストンコンテストで優勝して芸能界入りを実現。コーラスラインの一員として大都市でのステージに立ちながら評価を得、端役ながらハリウッドから声がかかるようになった。
3度の離婚を経験し、1955年ペプシコーラ社長アルフレッド・スティールとの4度目の結婚をしたが、59年に死別。それによりジョーン・クロフォードは1972年までペプシコーラの取締役や副社長といった要職を歴任することになる。
ここまで述べたら、ジムビームのペプシコーラ割りがふさわしいのかもしれないが、やはり彼女のイメージからはメーカーズマークの甘美さにグレープフルーツジュースのすっきりとした酸味が加わった味わいが似つかわしい。
スコット・フィッツジェラルドが抱いたジョーン・クロフォードのイメージから、どうしても逃れられない。
(第9回了)