アメリカではイギリス植民地時代から酒類への規制の動きがあった。宗教的な面が強いが、一方で男たちの過度の飲酒が問題視されたのである。
1658年、マサチューセッツ州はアルコール度数の高い酒を不法とした。いまのように度数何パーセント以上が駄目ということではなく、ラムやウイスキー、ブランデー、ワインといった曖昧な線引きである。リンゴ酒(シードル)が古い文献によく登場するのは、低アルコールなので誰もがつくったのだろう。
禁酒というよりは、貧しい生活のために偏った食物を大食し、アルコールをやたら摂取する人たちに節制を求めたのだ。
1776年に独立宣言がなされアメリカ合衆国として歩みはじめても、国として未成熟なだけに、生活が不安定で必死に働いて生きようとする分、男たちの飲酒量が減少することはなかった。貧しく厳しい状況が不摂生にさせたのだ。
19世紀に入ると過剰飲酒する人たちがさらに増えてくる。すると、いまでいう適正飲酒という訴え方ではなく、酒イコール悪、となり過激に禁酒へ動こうとする人たちが出てくる。ある意味、仕方のない状況であったのだろう。
1840年頃から禁酒運動が活発化したといわれている。まずは敬虔なキリスト教徒のなかでも自らを極めて厳しく律する宗派が主導となった。そしてメイン州で禁酒に関する法律が1851年に出された。追随して11州と2準州でも規制した法が成立した。ここから活動は広がっていくかに見えたが、南北戦争(1861−1865)によって人々の関心は失せ、なし崩しとなる。
南北戦争後、新たな運動が開始される。飲酒習慣をしっかりと抱いたアイルランドやドイツからの移民が増えつづけていたため問題視したのである。その後はイタリア、ロシア、ポーランドをはじめ東ヨーロッパからの移民も増えていくのだった。
1869年、禁酒党が生まれる。1873年には全国キリスト教婦人禁酒同盟が発足。1881年にはカンザス州が州憲法によって最初のアルコール禁止州となる。
そして1893年、反酒場連盟が旗揚げされる。オハイオ州でWASPを中心とする牧師や企業家たちが国家的な禁酒法成立を掲げて結成したのがはじまり。2年後には全国組織となり各州に支部を設置するまでになった。
反酒場連盟はまず移民労働者の飲酒量を減らし、生産効率を上げること。さらには彼らが集まる酒場が腐敗政治の温床となっていることから、その浄化を目指し活動をはじめた。ここから政財界の思惑がからんでいく。
移民労働者たちはランチにビールを1、2杯飲んだりした。夜は孤独や粗末な居住空間に暮らす家族から逃れるために酒場へ出向く。祖国を同じくする経営者や客たちが集まる場所で安らぐ。彼らはそんな日々を送っていた。
酒場の主人は新参者の移民たちを援助した。役所へのさまざまな手続きをはじめ、住居や就職の世話までした。
酒場の主人は町の有力者。陰で地元政治家を操る者もいれば、実際に議員、なかには市長に選ばれる人物までいた。世話になった移民たちの恩返しは選挙で酒場の主人の思惑通りに動くことだった。19世紀末には市議会議員の1/3が酒場経営者という都市がたくさんあった。移民国家らしい話である。
政治浄化運動に社会改革を目指していた進歩主義者が同調する。彼らは新たな社会体制確立のために酒場経営者の政治力を奪う必要があった。
またアメリカは世界の工場となりはじめていた。石油、鉄鋼、新しい分野の自動車といった花形産業の大物たちは生産効率を上げようと主張する反酒場連盟に当然のごとく賛同し、多大な支援をしたのだった。
(第68回了/次回へつづく)