これはドラッグストア内のソーダ・ファウンテンで、ソーダ水やクリームソーダをサービスする従業員のことである。ソーダ・ジャークの名は、サーバー(給仕)がソーダ水を注ぐときにソーダ・ファウンテンのハンドル(タップ)を前後に大きく振る(ジャーキング/jerking)という動作から生まれたものだ。
タップをジャーキングして、専用の背の高いタンブラーにソーダ水を注ぎ、スプーンですくったアイスクリームを入れる。そこに柄の長いソーダスプーン、そしてストローを加えてサービスする。たったそれだけのことだが、ソーダ・ジャークのサービス・コンテストも開催されたりして町のスターにもなれ、多くの若者がこの仕事に就いた。
そして1913年、全米ソーダ水消費量が年間4億7500万ガロン、リットル換算ならば18億リットルをも超える。1916年にはニューヨークタイムズ紙が“世界最大のソーダ・ファウンテン大国”と記事にするまでになった。
1920年から13年間、国家としての禁酒法が施行されていた時代にアメリカ国民の第3の場所として愛されたのがソーダ・ファウンテンでもあった。もちろん19世紀から人々が社交を求めて集った第3の場所ではあったが、それまでの酒を嗜む者が顔を出す場所ではない、といった風潮が必然的に失われていき、ハードドリンカーさえも癒しの場、一息つく場として愛したのである。
ソーダ・ファウンテンは1940年代に人気絶頂を迎えたが、第二次世界大戦後しばらくするとアイスクリーム・パーラーやファストフード店の台頭によって急速に衰退していった。
明治時代、このソーダ・ファウンテンに魅了されたひとりの日本人の男がいた。福原有信。資生堂創業者である。資生堂は1872年(明治5)に日本初の洋風調剤薬局『資生堂薬局』として誕生している。
福原有信は1900年のパリ万博見学をかねて欧米を視察した際に、アメリカのドラッグストアでソーダ・ファウンテンを目にする。薬局内の奥にカウンターがあり、客がそこで飲料や軽食を楽しんでいる姿を見て、薬局に寄せる信頼感、愛着、こころの癒しといったものを福原は感じたのだった。
彼は帰国後、現在の東京・銀座中央通り、8丁目に『ソーダ・ファウンテン』(現東京銀座資生堂ビル)を開業する。1902年(明治35)のことだった。薬局の一角にソーダ水やアイスクリームの製造・販売をおこなうソーダ・ファウンテンを開設し、大きな反響を呼ぶ。のちに現在の『資生堂パーラー』へと発展し、レストランやバー部門も名声を得ることになる。
当時、西洋文化がいち早く流入していたハイカラな銀座で異なる文化を発信し広めようとするからには、進取の精神はもとより、ファッショナブルな感性がなくては生き残れなかった。福原は薬や衛生面での新しい西洋のスタイルを紹介しながら、やがて化粧品へと事業を発展させて行ったのだが、美を追求していくなかでお洒落をして洗練された美味しいものを口にするという場を事業展開していったのである。
ではジムビーム・ハイボールを一杯。とくに暑い日々がつづく季節は、レモン果汁を少し搾り入れて、すっきりとした清涼感で心身を癒そう。
(第66回了)