バーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえるバーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえる

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キーストーン・ステート

イギリスのチャールズⅡ世が現在のペンシルベニアを含む広範な一帯を、ウイリアム・ペン(1644−1718)に勅許した。これには訳があり、チャールズⅡ世(1630−1685)はウイリアム・ペンと同名の彼の父、ウイリアム・ペン海軍提督に莫大な借金があった。この弁済に、ペン提督の息子のためとしてこの地を与えたのである。

実は国王も父親のペン提督もウイリアム・ペンの扱いに苦労していた。ペンは裕福なイングランド国教会信徒の子として生まれ育ちながら、クエーカー教徒に改宗し、アンチ国教会派として目をつけられ、何度も投獄されていた。ある意味、借金帳消しとともに厄介払いをしたともいえる。

土地の名をシルベニアにしようとしたウイリアム・ペンに、チャールズⅡ世は自分のお父さんを敬いなさいと、ペンをシルベニアの前に付けるように命じたことで、“ペンの森の国”となったそうだ。

またフィラデルフィアという都市名もペンが名づけたものだ。この地のはじまりは1683年にドイツから渡ってきたクエーカー教徒がジャーマン・タウンを建設したことにはじまるが、ペンは“兄弟愛の市”を意味する古代ギリシャ語からフィラデルフィアと命名し、植民地の首都にしたのである。

 

アメリカンウイスキーの発祥は、現在のペンシルベニア州とメリーランド州の州境あたりで、17世紀末にドイツ語圏スイス出身のメノー派教徒が蒸溜をはじめたという説がある。おそらくライ麦を原料にしたライウイスキーのことであろう。

バーボン業界を主導しながら、20世紀半ばから撤退がつづいたライウイスキー製造を守りつづけているドイツ系のビーム家の第一歩はメリーランド州だった。まさにアメリカンウイスキーづくりの源流からつづく家系である。

こちらに関しては連載第23回『ウイスキー・ボーイ』をご一読いただきたいのだが、ウイスキーづくりがはじまったのはウイリアム・ペンがペンシルベニア植民地を創設してまもなくのことである。

領主ウイリアム・ペン。彼は信仰心に厚いだけでなく寛容な思想家でもあった。表面的にはイギリス国王への忠誠を見せつつも、神を信じる者すべてへの信教の自由を保証し、アメリカ合衆国憲法のお手本となった三権分立の民主的制度を整えた。これによりクエーカー教徒だけでなく、ヨーロッパで迫害されていたメノー派、アマン派はじめ、とくに18世紀になるとたくさんのキリスト教諸教派の移民たちがペンシルベニアに集まった。

ペンシルベニア州ランカスターには、いまなお文明を受け入れることなく、農耕や牧畜による自給自足の質素な生活をつづけるアーミッシュの村があることで知られている。彼らはペンの思想を頼ってアメリカへ渡ったのである。

ライウイスキーづくりはこうした移民たちのなかでもドイツ語圏のシュナップス(蒸溜酒)、それもライ麦や小麦を原料とするコルン(korn)づくりに精通した者たちがはじめたのであろう。そしてドイツ系はもちろんスコッチ・アイリッシュをはじめとした移民たちもそれに倣い、やがて彼らがケンタッキーでトウモロコシを主原料にしたウイスキー、バーボンをつくるようになった。

(第60回了)

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