第22回「ジャーマン・アメリカン」からのつづきです。
発明王エジソンが活躍しはじめる同時期に、アメリカ最初のリアリズム作家といわれるマーク・トウェインが登場する。
とてもウィットに富んだ男だったようで、彼の遺した名言、格言はアメリカのさまざまなシーンで最も多く引用されているという。彼の名言のなかからわたしが好むいくつかをご紹介しよう。
“アダムはリンゴが欲しかったのではない。禁じられていたから食べたのだ”
“教育とは、うぬぼれた無知から、みじめな曖昧さへの道である”
“若いうちはどんなルールにも従っておくほうがいい。歳をとればルールを破るチカラが手に入るのだから”
“いまから20年後、あなたはやったことよりも、やらなかったことに失望する”
まだまだたくさんあるのだが、このくらいにしておこう。今回は「ジムビーム」のハイボールを飲みながらくつろいでお読みいただきたい。口中にそよ風を呼びこむようなすっきりと爽快な味わいに浸りながら、アメリカを代表する作家の歩みを見つめてみよう。
トウェインの本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンズ。1835年11月30日ミズーリ州フロリダにクレメンズ家の4男として生まれた。誕生の2週間ほど前、ハレー彗星が近日点(地球に最も接近/公転周期約75.3年)を通過している。
トウェインは「わたしはハレー彗星とともに地球にやってきた。だからハレー彗星とともに旅立つ」と吹聴していたらしい。見事というか奇遇にも、次にハレー彗星が近日点を通過した翌日、1910年4月21日に世を去った。
4歳のときに家族は同じミズーリ州ハンニバルに移る。そこはミシシッピ川沿いの町で、舟運で栄えていた。一家は17世紀半ばにイングランドからバージニア州へ移民した、当時のアメリカとしては旧家であったがすでに没落しており、決して裕福ではなかった。だが、それでも黒人奴隷を住まわせていた。
ミシシッピ川と遊び相手だった奴隷の子供たち。こうした環境が『トム・ソーヤの冒険』(1876年)を誕生させたといわれている。
12歳になる年に父親を亡くし、13歳から長兄がはじめた新聞の発行を手伝った。その新聞で話題となり、論争の火種となる記事は、長兄が出張に出た隙にトウェインが書いたものだったという。早熟だったのである。
17歳で故郷を出てセントルイスに行く。水先人見習いから、1858年に水先案内人の資格を取得した。ペンネームのマーク・トウェインは川蒸気船の航行用語のひとつ“by the mark, twain”からいただいたもの。蒸気船が安全に航行できる最低限必要な深さ、日本では水深2尋(ひろ)を指し、約3.62メートルのことらしい。