第22回「ジャーマン・アメリカン」からのつづきです。
南北戦争勃発の年1861年に名曲が誕生している。『オーラ・リー』(Aura Lea)。オハイオ州シンシナティで発表された作品で、南北戦争中に曲は広まり、若い兵士たちが故郷に残した彼女のことを思い、歌った。
どんな曲か。1950年代半ば過ぎにエルヴィス・プレスリーによって大ヒットした『ラブ・ミー・テンダー』の原曲といえば、おわかりになるだろう。
欧米には戦に赴く息子や恋人、あるいは故郷で帰りを待ちわびる人々の思いを歌った曲が多い。アメリカ独立戦争時(1775〜1783)にはアイルランド民謡『シューラ・ルーン』を原曲とする『ジョニーは戦場へ行ってしまった』(Johnny Has Gone for a Soldier)が盛んに歌われたという。
この曲は1960年代に『虹と共に消えた恋』(Gone the Rainbow)と題してピーター・ポール&マリーがカバーしてヒットし、世界的に知られるようになった。その後『バターミルク・ヒル』の曲名でカバーされることもあった。
1862年には『リパブリック讃歌』が発表され、北軍の軍歌として広まる。曲の背景には奴隷制廃止、南部への反発があるにもかかわらず、日本では不思議なことに“ゴンベェさんの赤ちゃん”をはじめ、新宿のカメラ屋さんのCMなどさまざまな詩を載せられて歌われてきた。
ここで南北戦争の南軍について言及しておくと、南部はアメリカ連合国と名乗った。連合国はアメリカ合衆国から独立した南部諸州によって誕生し、南北戦争の間の4年間だけ存在した国家であった。首都はアラバマ州モンゴメリー、次にバージニア州リッチモンドへと移る。
連合国の別称は“ディキシー”(Dixie)。このワードの起源は明確ではない。ルイジアナ州の銀行が発行していた10ドル紙幣の裏面にフランス語で10を意味する“Dix”が記されており、そこからいつの間にか南部全体をディキシーランドと呼ぶようになったとか、寛大な奴隷主だったディキシー氏に由来するとか諸説ある。いまでもこのワードはよく耳にする。音楽でいえばディキシーランド・ジャズが知られている。
この呼び名が広まったのは『ディキシー』という曲を南軍が行進曲として使ったことによる。ただし、曲は1859年に北部の人間が発表したものである。
アメリカ連合国唯一の大統領はジェファーソン・デイヴィス(1808〜1889)。彼はイギリス・ウェールズからの移民の一族で、生まれはなんとケンタッキー州であった。合衆国16代大統領エイブラハム・リンカーン(共和党)もケンタッキー。ふたりの年齢差は、デイヴィスがひとつ上というだけ。バーボンウイスキーの地は、皮肉にも南北戦争で相対する大統領を生んでしまったのだ。