デイヴィスの数奇な運命は、当時の政情とウエストポイントのアメリカ陸軍士官学校を出た彼の経歴が絡み合ったものだ。振り出しは陸軍少尉、そして政治に目覚めてミシシッピ州選出の下院議員、米墨戦争ではミシシッピ義勇軍を率いる大佐となり、1852年合衆国14代大統領選では民主党のフランクリン・ピアースのために南部諸州で選挙活動をおこない、その後は上院議員、そして南北戦争において南軍の少将に任命後、すぐさま連合国大統領に指名された。
敗戦後は合衆国政府に戦犯として国家反逆罪に問われる。有罪は免れたが公職就任資格を剥奪された。しかしながら旧連合国市民からは敬愛され、ディキシーランドでは北軍を脅かしたリー将軍とともに尊敬される偉人となっている。
南北戦争が終わっても合衆国による占領統治政策への旧連合国市民の不満もあり、北部と南部の関係はギクシャクしつづける。そんな時代のなか、1870年代に突入するとケンタッキーでは新たな文化が生まれていく。
バーボンウイスキーによってサラブレッドの生産地となったケンタッキーのルイビルにチャーチルダウンズ競馬場が1875年に開場し、5月17日に第1回ケンタッキーダービーが開催された。
開会式のとき、競馬場クラブハウスにおいてバーボンベースの「ミントジュレップ」が提供されたという。好都合にも、競馬場裏手にミントが生い茂っていたらしい。それから後、「ミントジュレップ」にはバーボンベースというレシピが広く浸透していくようになる。
ジュレップはもともとフランス語であり、主に薬を服用しやすくする目的で使われていたシロップを指す言葉だった。アメリカには18世紀にフランス領地域に伝わり、ディキシーランドでは芳香性のある飲料全般を指すようになる。
やがてミントと砂糖を加えた伝統的な飲み物「ミントジュレップ」となるのだが、ベースの酒はボルドーワイン、マデイラワイン、ブランデー、ラムなどさまざまに存在した。古典的なミントジュレップのひとつに「ジョージア・ミントジュレップ」がある。これはブランデーとアプリコットブランデーを同量使用する。まさにフランス的である。
ウイスキーをベースにする場合はライウイスキーだった。
さて、いまライをベースに味わうならば「ノブクリーク ライ」をおすすめする。ビーム家7代目フレッド・ノーがクラフトバーボン「ノブクリーク」のリッチなコクを踏襲しながら、ライ麦由来のスパイシーでハーブ様の爽やかさを見事に表現したものだ。ホワートオーク樽熟成の甘いバニラの感覚もあり、「ミントジュレップ」のベースにすると甘美で涼やかな口当たりとなる。
口中を駆け抜けるその味わいは南北対立の過去を忘れさせ、陽の光を浴びたディキシーランドの農園をそよぐ爽風の心地よさへと誘う。
(第32回了)