『Hibiki』Vol.8 2019年7月1日発行
特集:オペラでドラマティックな時間を
客席にゆったりと座れば心ときめいて
やがて音楽が始まると、場所も時代もワープして物語のまっただ中へ。
オペラにはそんな魔力があります。
歌声と音楽と舞台空間と。目も耳も満たされる恍惚の時間。
今号では、サントリーホールならではのオペラの世界へご案内します。
サントリーホール オペラ・アカデミーからは、世界へ羽ばたく若きオペラ歌手たちをご紹介します。
今世紀最高のオペラ
大野和士
カールスルーエ・バーデン州立劇場の音楽総監督、モネ劇場の音楽監督、フランス国立リヨン歌劇場の首席指揮者を歴任、ヨーロッパの名だたるオペラ劇場、音楽祭に出演。現在、新国立劇場オペラ芸術監督、東京都交響楽団およびバルセロナ交響楽団音楽監督。
まだオペラを体験したことがない方にも、オペラファンにも、是非おすすめしたいオペラが、この夏サントリーホールで上演されます。
「今これを聴かなければ一生損をする!」
と熱く語るのは、世界的指揮者・大野和士。自らプロデュースし、指揮するオペラのタイトルは『リトゥン・オン・スキン Written on Skin 』。「羊皮紙(装飾本)に書かれたこと」というような意味です。イギリスを代表する作曲家ジョージ・ベンジャミンの「美しき音楽」に彩られた「刺激的な舞台」は、2012年に南仏の「プロヴァンス音楽祭」で初演されて以来、世界各地のオペラ劇場やコンサートホールで上演され、絶賛されています。
「21世紀最高のオペラを、ついに日本の皆さんにお届けすることができます。しかも、このサントリーホールのすばらしい音響で聴いていただけるのです。初めてオペラを観る方や、若い世代にこそ、ぜひ気軽に来ていただきたい」
とマエストロ。日本初演、つまり誰もが初めて目にする世界なのだから、予備知識はいらないし、難しく考える必要はまったくないのだと言います。
「今を生きる作曲家が書いた音楽、劇作家が書いた台本ですから、同時代感覚で受け取れると思います。簡単に言ってしまえば三角関係の恋愛悲劇。人間の情け容赦ない深い情念がテーマです。中世と現代の時空を行き来しながら、ゾクゾクするような結末へと展開していく、美しくも残酷なオペラなのです」
オーケストラを“見る„
恋心の芽生え、嫉妬、裏切り、権力をかざした暴力、反抗、強い意志、燃え盛る愛、グロテスクで衝撃的な事件が起こり、打ちのめされ……情感溢れる歌声とともに、さまざまな感情の起伏や場面状況をオーケストラが奏でます。
オペラ劇場では通常、オーケストラは舞台手前の箱のような空間(オーケストラ・ピット)に身を隠して演奏します。しかし、サントリーホールはコンサート専用ホールですからオーケストラも主役。指揮者もオーケストラも舞台に上がり、歌手が演じる人物や物語の風景と混じり合って演奏するのが、サントリーホールならではのオペラ形式です。客席が舞台を取り囲む独特な空間と音響を最大限に活かし、20近い独自のプロダクションを上演してきた「ホール・オペラ®」の伝統です。だからこそマエストロは、待望のオペラ日本初演の上演場所にサントリーホールを選んだのです。
「オーケストレーションの細かな描写がよく耳に届き、それが目に見えるのが、非常に大きな魅力です。ピットに入ってしまうと、弦楽器の繊細な響きは客席に聴こえにくいのです。そして、このオペラの舞台となる中世ヨーロッパの世俗的な雰囲気を表わすマンドリンこそ重要です。舞台上で楽器が演奏される姿を見ながら、音色に耳を傾け、イマジネーションを膨らませていただけると思います」
弦楽器は中世の響きを再現するべく小編成で、さまざまな事件が起こるドラマを盛り立てる管打楽器は充実させて。「咆哮しシャウトするような」金管楽器、「ささやくような」マンドリン、「幻想的な」グラスハーモニカの響き。ときに東洋的な音も聴こえれば、現代的な音の重なりも。登場人物それぞれの心の動きが、どのような楽器で表現されるのか、見て聴いて、物語に浸ってください。
セノグラフィーという仕事
針生康
2003年より舞台芸術家として独立、ヨーロッパを中心に活動。イギリスで手掛けた舞台が、この4年間に全英で上演されたすべての舞台の中からベスト12デザインに選ばれ、世界舞台美術博覧会に出展された。「今回、大野さんと初めて一緒に仕事させていただけて、すごくうれしい。サントリーホールという名建築と舞台をどう融合させるか、試行錯誤を重ねています」
「ヴィジュアルの仕掛けも見所です。映像を駆使した、とびきり美しい舞台。演じられる空間としてのサントリーホールの魅力を存分に披露します」
と意欲的なマエストロは、ヨーロッパを拠点に活躍中の若き舞台芸術家・針生康を起用しました。建築や展示設計、モダン・バレエや演劇の舞台など、彼女がつくりだす新しい空間デザインは、今、世界で注目を浴びています。
本番数カ月前。まだ何もない舞台を前に、マエストロとディスカッションを重ねる針生さんの、凛とした姿がありました。
「舞台に関するすべての視覚的効果を担当するのが私の仕事です。英語で『セノグラフィー scenography(舞台 scene を記述する -graphy)』と言います。舞台装置だけでなく、照明や衣装も含め、演出家や音楽家が考えていることをヴィジュアル化し、すべてを包括する力のあるデザインを提供する役割です。どんな空間が作品に合うのか、どんな空間を皆さんが見てみたいか。常に新しい技術を取り込み、ドラマティックに変容する舞台づくりを考えています」
『リトゥン・オン・スキン』の主な登場人物は、南仏プロヴァンス地方の裕福なプロテクター(領主)とその妻、そして写本彩飾師の少年。彼らを見守る天使たち。天国的なものと世俗的なもの、過去(中世)と現在(現代)が交錯する舞台。2階P席最前列の高さにもなるアクティングエリアが設けられ、オーケストラを挟んで前方と後方を人物が行き交います。背景には巨大なスクリーン。映像が映し出されます。
「原作(邦題『蝕まれた心臓』)に出てくるSF的なイメージなども、うまく視覚化したいですね。南仏プロヴァンスのロケーションで、中世の空間と現代の空間のコントラストを表し、きれいで美しいだけでなく、空虚な場所やドライな光景、皆さんが見たことのないヨーロッパも見せられたらと思います。現代を生きる私たちは何を信じ、どういう風に生きていけばよいのかというのが、このオペラのひとつのテーマだと思うので」
と、針生さん。オペラも含めパフォーミング・アーツは生きている芸術、社会や歴史と深くつながっているもの、と言います。
「若い人たちにとって、劇場やホールが自分と切り離された空間であってはいけないと思うんです。今回すばらしいのは、チケットが買い求めやすい値段であること!もっと身近な場所、もっと身近な舞台に感じてもらえたら嬉しいです」
「リトゥン・オン・スキン」の舞台イメージ図。
物語る歌声
オペラ歌手とは、圧倒的な美声で歌うだけでなく、役柄の人格や品性、感情や心理などすべてを歌声で表現できる人。今回の舞台には、ヨーロッパのオペラ界を知り尽くしたマエストロが、この役にはこの人しかいない!と選りすぐった、旬な歌手たちが登場します。
「プロテクター役(バリトン)のアンドルー・シュレーダーは、とても上品な歌い方もできるし、猛り狂ったたくましい声も出せます。妻アニエス役のスザンヌ・エルマーク(ソプラノ)は、ものすごいコロラトゥーラ(高音域の超絶技巧)を持っている人で、このオペラに欠かせない〝野獣性〟のようなものも備えている。少女性もあり、サロメ的な悪女性もあり、自覚しているのか無意識なのかわからないところでの残酷な性格をも表さなければならない役です。そして、彼女と恋人になってしまう少年。3人の関係性を築く大変重要なこの役を演じるのは、藤木大地(カウンターテナー)。天使役と一人二役です。写本彩飾師の少年がプロテクターと対峙し、女性を巡って鞘あてを行うわけです。声楽的には、ボーイソプラノとバリトンと高いソプラノ。三者三様まったく違う種類の声で、まったく違う技術を持った声が織りなす魅力が、このオペラにはすごくあります」
とくに、それぞれが自らの気持ちを同時並行で、異なる旋律、音程、リズムで歌い重ねる三重唱は、聴き所です。
「歌を聴く鋭い耳のあるオーケストラ」とマエストロからの信頼も厚い、東京都交響楽団が、歌手の歌声に寄り添います。そして、「人の声に結びつくような、人肌の音を常に志向している」というマエストロが指揮を振り、歌とオーケストラによるドラマを際立たせます。
英語で歌われる歌詞は、舞台上の見やすい位置に日本語字幕で表されますし、約90分という上演時間も、初めてのオペラ体験にはぴったり。ぜひ、オペラの特別な昂揚感を味わってみて下さい。またとない体験です。
オペラはイタリア生まれ
21世紀最高と言われるオペラをご紹介しましたが、では、オペラという総合芸術は、一体いつ頃生まれたのでしょうか?
遡ること400余年。イタリア・フィレンツェの貴族のサロンに文学者と音楽家が集まり、古代ギリシャ劇を再現しようと試みたことが、オペラ誕生のきっかけになりました。ヴェネツィアに最初のオペラ劇場ができたのが17世紀前半。ナポリではシーズンごとにオペラが上演されるようになり、世界のオペラの中心地に。かのモーツァルトも10代でナポリを訪れ、その時の体験から、数多くのオペラ作品を生み出してゆくのです。
今も上演される名作の多くがイタリアオペラであるのは、こうした歴史ゆえ。18世紀以降、ドイツ、オーストリア、フランス、ロシアなどを中心に、他の国でもさまざまな作品が制作され、オペラ劇場の定番レパートリーになっていきます。もちろん、日本語のオペラも新しく生まれています。
オペラ・アカデミー
ジュゼッペ・サッバティーニ
1993年、最初のホール・オペラ ®に出演以来、オペラ歌手としてサントリーホールの舞台に何度も立つ。オペラ・アカデミーにも創設メンバーとして最初から関わり、「サントリーホールとの付き合いは、人生の半分以上」。母国イタリアの音楽院で教鞭をとり、世界各地でマスタークラスを開催。国際コンクールの審査員も務める。下右は、ホール・オペラ ®『ラ・ボエーム』で主役を演じるサッバティーニ。
サントリーホールには、前述のようにホール・オペラ ®の歴史があります。名だたるオペラ歌手が来日し、『ラ・ボエーム』『椿姫』『リゴレット』『ドン・ジョヴァンニ』など、名作中の名作を独自の演出で、日本の観客に披露しました。
時を同じくして1993年、「サントリーホール オペラ・アカデミー」が開講します。プロを目指す日本の若き声楽家たちが、世界的オペラ歌手にレッスンを受け、啓発し合いながら成長できる育成の場をつくりたい……その思いに賛同し、設立に尽力したひとりが、ホール・オペラ ®で主役を演じたテノール歌手ジュゼッペ・サッバティーニです。世界の歌劇場で活躍したスター歌手。その後、指揮者・声楽指導者として世界各地で活動し、2011年より、オペラ・アカデミーのエグゼクティブ・ファカルティ(最高指導者)に就任しています。
「6人の講師陣(コーチング・ファカルティ)とチームを組み、独自のメソッドで、2年間のプログラムで教えます。まず発声の基礎技術を身につけること。イタリアの歌唱法を身につけること。オペラにはテキストがあり、そこに物語がある。言葉が命を吹き込むのですから、正しい発音のイタリア語で歌うのが大前提。それがなかなかできていないのです」
サッバティーニのレッスンはイタリア語で行われ、アカデミー生たちは聞き漏らすまいと必死にイタリア語を学びます。受講生の大半は音楽大学を卒業あるいは在学中にオーディションを受け、本アカデミーに参加した歌手の卵たちですが、レッスンでは徹底的に発音を直されます。歌に込められた気持ちが、自分の声を通して観客に伝わるように。作曲家や詩人の意図が正確に伝わるように。
「楽譜に書いてあるコンセプトを頭で理解し解釈し、ハートで表現する。感情ですね。それを、喉を通して伝えるための技術。この3つの要素で歌うのです」
2年間の「プリマヴェーラ・コース」を終えて実力をつけた数名が、「アドバンスト・コース」へ進み、オペラの役を通じて、さらに深い解釈と表現を学びます。すべて無償で学ぶことができるのが、このアカデミーの大きな特徴です。
「とても優れた講師陣とすばらしいスタッフ。最高のチームです。この8年間でチーム自体も成長しています」
レッスン風景
ホール・オペラ ®『ラ・ボエーム』で主役を演じるサッバティーニ。
世界へ羽ばたく
田口道子
40年来イタリアに在住。オペラ・アカデミー公演は5回目の演出。演技指導、舞台構成、衣装監修から字幕まですべて手掛ける。
アカデミー生によるオペラが、今年2月にブルーローズ(小ホール)で上演されました。モーツァルトの名作、『フィガロの結婚』。彼らに付きっきりで役づくりを仕込んだ演出家・田口道子は、
「こんなに集中して長期間、稽古をさせてもらえる場所は、他にはないです」
と開口一番。イタリア語の細かなニュアンスを理解し、作品がつくられた時代の文化的・社会的背景、そこに至る歴史などを知ったうえで歌い、演じるために、全篇を通した本読みから始めたそうです。
「貴族から平民までみんなが熱狂してオペラを観に行った黄金時代の作品です。原作に忠実に、言葉を大事に、正統的な演出をして、内容を知らない人が見てもわかりやすく楽しめる舞台づくりを心掛けました」
アドバンスト・コース第2期修了生として参加したソプラノ歌手・迫田美帆は、
「田口さんの演出は『形から』ではなく『心から』。稽古を重ねるごとに伯爵夫人の気持ちに共感できるようになり、気がつくと、心と身体が連動して、何の違和感もなく自然な動きができるようになっていたのです」
と言います。アドバンスト・コース現役生はそれぞれ、フィガロ(石井基幾/バリトン)、スザンナ(金子響/ソプラノ)、伯爵夫人(大田原瑶/ソプラノ)、ケルビーノ(細井暁子/メゾ・ソプラノ)と大役を演じ、プリマヴェーラ・コース生も全員舞台にのり、全4幕2時間半におよぶ物語を歌いあげました。コーチング・ファカルティの古藤田みゆきがピアノ1台で見事に音楽を奏で、彼らを支えます。会場は熱気に溢れ、惜しみない拍手が贈られました。
そして5月末。研修の締めくくりとなる『オペラ・アカデミー修了コンサート』。個人レッスンも全員が参加して、互いのよき「耳」となってきた仲間。共に研鑽してきた成果を、それぞれが歌声で表現します。コレペティトゥア(ピアノ伴奏をしながらオペラ歌手に指導をする人)を目指してピアノで受講した生徒が伴奏します。
「歌う時、自分自身の内面をさらす勇気を持ちなさい。誰の真似をするのでもなく、自分自身でありなさい。歌うことは、生きることだから。そして、歌うことで人に幸せを与えることができるから」
サッバティーニ氏の教えです。
ブルーローズ(小ホール)でのオペラ・アカデミー公演
『フィガロの結婚』。シンプルながらわかりやすい舞台。アカデミー生の熱演に魅せられます。
アドバンスト・コース
大田原 瑶(ソプラノ)
2018年東京藝術大学 大学院音楽研究科 オペラ専攻修了
アドバンスト・コース
石井基幾(バリトン)
東京藝術大学大学院 音楽研究科 声楽専攻在籍中
オペラ・アカデミー公演 『フィガロの結婚』リハーサルにて。
自分の表現をお客様に伝えるにはどうしたらいいのか、ということを、この4年間で学べたと思います。感情表現が伝わるように、真似事ではなく、自分で考えること。レッスンでも、サッバティーニ先生の歌の表現には迫力を感じました。先生からは「アプリ ラ ゴーラ(のどを開け)」と言われ続けました。これは永遠の課題。僕にとっては、すべてがよくなる魔法の言葉です。まずは大学院を修了して、留学したいと思っています。
『オペラ・アカデミー 修了コンサート』にて。
要求されることも、イタリア語に関しても、すごく厳しかったことが、自分にはとても良かったと思います。皆、必死で勉強しました。違う大学で学んだいろいろな年代の人がいて、意見が違うからこそ音楽の深いところまで話し合え、互いに高め合えました。サッバティーニ先生と一緒にオペラ公演を1本勉強させてもらえるなんて、なかなか日本ではできないこと。このアカデミーがなければ、今の自分は無いと思います。これから、パルマの音楽院に留学する予定です。今日の修了コンサートで自分に自信を持って、世界に挑戦していけたらと思います。