『Hibiki』Vol.4 2018年7月1日発行
ピアノから生まれる音楽
鍵盤の上を流れるように動く指。エレガントで華やかな響き。
消え入るようなピアニッシモ。
あるいは、両腕を打ちおろすように奏でられる激しい音の重なり。
ピアノは、誰もが知っている楽器でありながらまだ誰も聴いたことがない音や表現も秘めている、広く豊かな音源です。
今号では、そんなピアノに注目。
この夏から秋にかけてサントリーホールに響く、魅惑の音色をご紹介します。
生誕300余年
ピアノが最初につくられたのは、18世紀初頭のイタリアです。チェンバロやクラヴィコードという鍵盤楽器からの発展型で、ピアノ独自のハンマーで打鍵する仕掛けによって、幅広い音の強弱の変化が実現。そして、細かなニュアンスを鍵盤上で奏者が感情をこめて表現しやすくなったといいます。その頃すでにヴァイオリンやチェロ、オーボエなどは盛んに演奏されていたそうですから、ピアノはわりと新参者です。それから300余年。ドイツ、イギリス、オーストリアなど、ヨーロッパ各地へ、世界へと広がり、新たな機能が加えられ、改良が重ねられ、音域も88鍵まで拡大して定着しました。並行して作曲家のイマジネーションもどんどん広がり、さまざまな表現や奏法、作品様式が生まれてきたのです。
夏フェスで新感覚
そんなピアノの歴史の最先端を体感できるのが、8月22日から9月1日まで開催される現代音楽の祭典、『サントリーホール サマーフェスティバル』です。いつものクラシック音楽とはまた違う、コンテンポラリーな感性に出会える場。なかでも、作曲家・ピアニスト・指揮者として幅広く活動する才人、野平一郎による「ザ・プロデューサー・シリーズ」では、彼の新作オペラ『亡命』世界初演と、現代フランス音楽の魅力に浸る《フランス音楽回顧展》で、ピアノという楽器の果てしない可能性に刺激されそうです。
聴き逃せないのが、20世紀後半、パリから世界に影響を与え続けた巨星ピエール・ブーレーズの大作『プリ・スロン・プリ』(9月1日)。日本で演奏されるのは25年ぶり2度目。生で聴けるのは、一生に一度の機会かもしれません。野平さんが、高校生のときに初めて触れた現代音楽も、この曲だったそう。
「よくはわからなかったけれど、このなかには何かしら重要なものがあると感じ、洗練された響きに耳を洗われました」その響きは、ピアノの足下にある〝第3のペダル〟(3本並んだうちの真ん中)から生み出されるのだそうです。このソステヌート・ペダルこそ、20世紀にピアノに加わった新機能。ペダルを踏んだときに押した鍵盤の音だけが伸ばされる仕組みですが、そこで起こる共鳴、残響音を追求したのがブーレーズなのです。言葉で説明するのは難しいですが、とにかくその響きは、まったく新しい感覚を呼び起こすのだといいます。
室内楽の新しいかたち
新しい動きは、室内楽にも。
「20世紀以降の作曲家たちは、室内楽をも定番の形式から解き放ちました。あらゆる楽器の組み合わせが試みられましたが、2台のピアノと2人の打楽器奏者という編成は、なんだか絶妙にバランスが良いのです」
と野平さん。トリスタン・ミュライユ『トラヴェル・ノーツ』はその編成で演奏されます。2台のピアノは、弾いた音を長く持続させるダンパー・ペダルを多用して、時間の経過とともに音を重ねていくそうです。ピアノの響きと打楽器のリズムが絡まりあって、どんな旅の時空間が現れるのでしょうか。
ピアノ内部の弦の上にダンベルを転がすという、驚きの奏法も登場します。
「ラファエル・センドの『フュリア』は、編成はピアノとチェロと古典的ですが、特殊奏法で、あらゆる音の在り方を探ります。過剰なノイズに近い音響でありながら、フランス音楽ならではのセンスのよさ、繊細さが表れている。その新しい音は、今、若者たちに非常にウケています」
2台のピアノが、リアルタイムなコンピュータシステムにより刻々と電子音響と絡まっていくという、フィリップ・マヌリ『時間、使用法』も、上記2曲と同じ8月27日のブルーローズ(小ホール)で体験できます。なんと濃密な時間!
「ひとつとして同じ響きはない。それだけ、ピアノという楽器は作曲家を誘うのです。難しい理屈は抜きで、同時代のセンス、感覚を耳で感じてください」
野平さん自身、新作オペラでは、バリトン歌手の歌声をピアノに共鳴させる手法を目論んでいるそうです。『亡命』というテーマ、フィクションとノンフィクションを行き来するストーリー、歌手の歌声とピアノ、器楽奏者の室内楽的絡み合い……開幕が待ち望まれます。
© Johannes Grau
8月27日『フランス音楽回顧展Ⅰ』で演奏するピアニスト、グラウシューマッハー・ピアノ・デュオ(左)、秋山友貴(右)。
ピアノの足元、右からダンパー・ペダル、ソステヌート・ペダル、ソフト・ペダル。ピアニストの足の動きにも注目です!
1台1台の個性
ところで、サントリーホールには、大ホール、ブルーローズ、リハーサル室や楽屋も含め12台のピアノがあります。
「手づくりなので1台1台仕上がりが違うのです。華やかな音色だったり、しっとりした音色だったり、音に個性があります。使用頻度も高いので、徹底したメンテナンスが必要とされます」
と、最初の1台から見守り続けている調律師の方は言います。現在主に舞台に上がるのは、ドイツピアノの流れをくむ米国のスタインウェイ(88鍵盤)4台と、ウィーンの老舗ベーゼンドルファー(97鍵盤)のグランドピアノ。19世紀フランスのエラール1867年製も。常に品質を保ち、本番前には必ず奏者の好みや演奏形態に合わせて入念に調律、音色を整えます。前述の現代音楽のような特殊奏法用の1台も控えています。
ピアノ内部。鋼鉄製の弦に直接触れて音を出す奏法も、現代音楽にはあります。
ドラマティック・ロシア
木の楽器であるピアノと、木材を多用したホールとの響き合いも、聴きどころ。 新進気鋭のピアニスト福間洸太朗さんは、昨秋、サントリーホール大ホールでの初リサイタルの際、
「ぶどう畑のように四方に広がっていく空間、宇宙のような広さを感じられるこのホールに誘われて、ピアノによる壮大な世界を描きたいと思いました」
と、20世紀前半のロシアの作曲家による作品を数多く演奏しました。
「ロシアの音楽は、感情を包み隠さずに思う存分出して弾けるんです。ドイツ系のモーツァルトやベートーヴェンの作品は、構成や和声の分析、そしてある程度の理性が求められますし、フランス音楽は色や香り、肌触りなど直感を大事にします。ロシアものは、魂を揺さぶるような力強いメッセージが何より大切なんです」
この秋には、平日昼間のコンサートシリーズ「とっておき アフタヌーン」Vol・8(9月14日)で、ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』を、日本フィルハーモニー交響楽団と共演します。この曲は、オーケストラとの絡み合いに、なんともいえない快感があるそうです。
「ピアノ独奏の鐘の音で始まり、オーケストラによって波が引き起こされ、その波に揉まれるように音楽が進んでいきます。苦悩あり、ロマンあり。第2楽章ではフルートやクラリネットのメロディをピアノが伴奏する場面もあります。弦楽器が、ふわーっと風やさざ波のように入り込んでくると、視界の色が変わっていくような感覚になり、弾いていて本当に心地よいんです。聴いている方々にも、その快感をぜひ味わっていただきたいです。
オーケストラの音をフルに引き出しながら、ピアノが主役としてごく自然に目立っていく。ラフマニノフが天才ピアニストであり、作曲家で指揮者でもあったからこそできた、不動の名曲です」
と、語りにも熱が入ります。一方で、自分の演奏活動では、まだあまり知られていない、演奏される機会の少ない作品も積極的に取り上げていきたいと言います。
「例えば現代曲は、楽譜という地図をヒントに、自分が信じる道を突き進む挑戦です。聴いてくださる方々にとっても、先入観なしにどのように受け止められるかという挑戦だと思います。音楽に対して寛容になれるというか、何が起こるかわからないスリルを楽しむ感じですね」
リサイタルの際は、演奏する作品が作曲された背景や聴きどころを自ら解説する動画を、事前に発信している福間洸太朗さん。ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』も、こちらのアドレスから見られます。 http://youtu.be/4OT‒BwkPVro
新しい出会い
サントリーホールには、ピアノの音色が毎日のように響き渡ります。
10月には、世界で活躍するピアニスト辻井伸行、ヴァイオリニスト三浦文彰という2人の若い音楽家の思いから新しく立ち上げられた「サントリーホール ARKクラシックス」が開催されます。辻井・三浦を中心とした室内アンサンブルによるショパン『ピアノ協奏曲第2番』、三浦友理枝ら華麗な女性演奏家によるピアノ・トリオでショスタコーヴィチ『ピアノ三重奏曲第2番』、アイスランド出身の人気ピアニスト、ヴィキングル・オラフソンによるコンテンポラリー・ナイトなど、熱く盛り上がる4日間です。
晩秋には、内田光子が2年ぶりにサントリーホールに登場します。それも、彼女が愛してやまないシューベルトのピアノ・ソナタを堪能できるプログラムです。
この夏から秋にかけて、様々なピアノ、ピアニストとの出会いが待っています。
『サントリーホール ARKクラシックス』は、8年目を迎える音楽祭ARKHills Music Weekのオープニング目玉イベントとして、今年から開催されます。10月5〜8日、ソリストとして世界で活躍する演奏家たちが集い、サントリーホールに極上のアンサンブルが響き渡ります。全9公演のなかにはすでに完売している公演もありますが、カラヤン広場でのライブビューイングも予定しています。赤坂アークヒルズ、サントリーホール周辺では、10月5〜13日の期間、様々な音楽イベントが繰り広げられ、美術館や大使館やホテル、街のあちらこちらで、音楽と出会えます。
「サマーフェスティバルは日本で最もレベルが高く実験的な現代音楽祭だからこそ、自分が生きてきた音楽を表したい」という野平さん。パリ国立高等音楽院で学び、フランス現代音楽の拠点IRCAMで作品を制作してブーレーズと知りあい、影響を受けた音楽家、野平一郎ならではの世界が繰り広げられます。室内オペラは「今一番やりたかったこと」。男女5人の歌手が、15人近い登場人物を歌い分けるそう。器楽奏者、ピアニスト、歌手が渾然一体となるアンサンブルが聴きどころです。
野平一郎(作曲・ピアノ・指揮)