主催公演

サントリーホール オペラ・アカデミー30周年記念公演

オペラ・ガラ・コンサートへの期待(1)
圧巻の『トゥーランドット』、珠玉の『蝶々夫人』

香原斗志(オペラ評論家)

長期にわたる取材でオペラ・アカデミー生の成長過程を見守る香原斗志さん(オペラ評論家)にサントリーホール オペラ・アカデミー30周年記念公演 オペラ・ガラ・コンサート 第1夜・第2夜への期待を込めて、2つの原稿を寄せていただきました。

基礎の構築に手抜きがないアカデミー

 毎年3月には、欠かせない楽しみが待っている。サントリーホール オペラ・アカデミーの修了生たちによる、納得の歌声を聴くことができる。例年は「オペラティック・コンサート」と名づけられているが、今年は「オペラ・ガラ・コンサート」と命名されている。もちろん、呼び名が異なる理由がある。今年はこのアカデミーの「30周年記念公演」なのである。だから二夜にわたって行われ、登場する歌手たちの数もひときわ多い。
 さて、その第一夜について紹介する前に、アカデミー修了生たちによるコンサートがどうして「欠かせない楽しみ」になるのか、簡単に説明しておいたほうがいいだろう。
 ひと言でいえば、それは彼らの歌が輝いているから。自己流に陥ることなく、あるべき理想に向かって進んでいると感じられるからである。その理由は、日本ではこのアカデミーでしか体験できない学びにある。
 いうまでもなく、オペラは西洋の芸術だから、日本にいて日本人から指導を受けるだけでは、修得できることに限界がある。器楽は楽器が客観的に存在するからまだいいが、演奏家の身体が楽器である声楽の場合、西洋の言葉が適切に響くように、自分で楽器をつくり上げなければならない。その点では、器楽よりはるかに困難がともなう。
 サントリーホール オペラ・アカデミーは楽器づくり、すなわち、住宅の基礎にも似た土台づくりにおいて一切の手抜きがない、国内唯一のオペラ・アカデミーといえる。だから歌が輝くのである。

欧米人の身体感覚に沿って学ぶ

 ホール・オペラ®の上演を機に1993年、世界に通じる日本人歌手およびピアニストの育成をめざし、指揮者のグスタフ・クーンを中心に設立されて30年。2011年からは、サントリーホールにおける数々の名演の記憶も鮮明な往年の名テノール、ジュゼッペ・サッバティーニがエグゼクティブ・ファカルティに就任し、堅固な楽器づくりの手ほどきをしている。
 アカデミーはイタリア古典歌曲や室内歌曲を学ぶ2年間のプリマヴェーラ・コースと、その修了生から選抜され、アリアなどオペラの楽曲を学ぶ2年間のアドバンスト・コースからなる。
 サッバティーニは音の基礎づくりで手を抜かない。たとえばイタリア語の7つの母音、すなわち「a」「閉じたe」「開いたe」「i」「閉じたo」「開いたo」「u」のつくり方を徹底指導する。いうまでもないが、ここが疎かになると、すぐれた楽器は得られない。だが、日本では、その基礎の基礎をていねいに学べる場所がかぎられている。
 つまり、ここは歌の基礎を欧米人の身体感覚に沿って学ぶことができる、日本では稀有のアカデミーなのである。そのうえでサッバティーニは「なめらかに歌えていない」「支えが足りない」「もっと美しく」などと親身に、時に厳しく指摘を重ねる。また、歌詞に描かれた世界をイメージできるように、具体例を挙げてしつこいほど説明する。それを聞いたあとでは、研修生たちの歌がみるみる変わっていくからおもしろい。
 とはいえ、日本人と欧米人のあいだには、骨格をはじめ身体的な差異が少なからずある。それに関して頼れるのが、7人の日本人コーチング・ファカルティの存在だ。欧米人は簡単に腑に落ちても、日本人は肉体的な違いもあって、簡単には飲み込めないことがある。そういうときは日本人ファカルティが、サッバティーニの指導を日本人向けに翻案し、落としどころを見つけてくれる。
 その点では、留学しても得られないことが得られる、ということもできる。

迫田「アカデミーでの学びを存分に活かせる蝶々さん」

 前置きが長くなった。3月21日に開催されるコンサートの第一夜は、没後100周年を迎えたプッチーニの『蝶々夫人』ハイライトがメインに据えられている。ここで蝶々さん役を歌う迫田美帆(ソプラノ)と、米海軍士官ピンカートン役を歌う石井基幾の二人に、アカデミーでの学びについて聞いてみたい。
 まず、迫田だが、アカデミーについて、
 「発声の基本から楽譜の読み方、表現のし方にいたるまで多くを学び、それはオペラ出演を準備するうえで大きな基盤になり、いまの私の歌手活動の支えになっています」
 と語る。そして、披露する蝶々夫人役について、続けてこう説明する。
 「力強い声を求められる部分がある一方で、ピアノやピアニッシモ、ドルチェといった繊細さを指示されている部分も多く、非常に幅広い表現が求められる役だと考えています。言い換えれば、アカデミーで学んだことを存分に活かせる役で、その意味でも歌いがいがあります。すでに舞台で歌ったことがあり、その経験を踏まえ、気持ちをあらたに譜面と向き合い、グレードアップした蝶々さんをみなさまにお聴かせできれば、と思っています」
 一本調子で歌われがちな役も、楽譜を見ると多彩な表現が要求されていることが多い。欧米では近年、作曲家のそうした意図に忠実であろうという姿勢が高まっているが、日本はその流れに乗れていない。欧米での実演に接して、いつも感じることだが、このアカデミーの修了生は違う。世界で通用するメソッド学んでいるから、その流れに適応できる。迫田の言葉からもわかるように、彼らの出番なのである。
 ちなみに迫田は、1月末に藤原歌劇団が上演したグノー『ファウスト』のマルグリートを歌い、この役ならではの清純さを繊細かつ多彩に表現した。

ソプラノ:迫田美帆

石井「アカデミーでの学びを応用すれば世界で通用する」

 石井はどうだろうか。アカデミーの学びについては、次のように語る。
 「歌唱の基礎はもちろん、読譜力から表現に必要な技術まで広く学びました。そのおかげで、はじめて取り組む作品でも、順序立てて学ぶ方法を確立できました。海外でオペラに出演したときも、アカデミーで学んだことを応用すればどこにでも通用すること、それだけの力がついていることを実感できました」
 2023年6月、タン・ドゥン作曲のオペラ『TEA』の上海での上演に際し、初の日本人キャストとして皇子役に抜擢され、高く評価された石井。ピンカートン役には、どのような思いを抱いているだろうか。
 「あまり好かれる役ではないと思いますが……、自分の気持を一番大事にする彼だからこそつかめた幸せ、同じ動機が招いた後悔、結末の悲劇。揺れ動く彼の感情を表現できればと思っています。数あるオペラのなかでも人間味にあふれる作品で、舞台も日本の長崎ですし、きっと物語に浸っていただけると思います。それぞれのキャラクターが表現する感情の色を楽しんでいただけたらうれしいです」
 感情の色――。人の心を打つオペラの演奏には、必ずそれがあるが、表現するのは簡単ではない。激しい表現で感情を伝えるのはたやすいが、曲の様式を壊さずに色彩としての感情を滲ませ、聴き手の心を打つのは難しい。だが、サントリーホール オペラ・アカデミーの修了生たちには、それができる。あるいは、それができる方向に進んでいる。それは先に述べたように、堅固な基礎の上に歌唱を構築しているからである。

テノール:石井基幾
オペラ『TEA』皇子役(写真右)
(2023年6月、上海歌劇院オペラハウス)

だから修了生たちの歌は輝く

 『蝶々夫人』ハイライトでは、イタリアでの経験も豊富なシャープレスの村松恒矢(バリトン)とスズキの林眞暎(メゾ・ソプラノ)の歌唱も楽しみだ。また、このハイライトが田口道子の構成である点にも注目したい。イタリア語について、日本人としての分析を加味するとイタリア人以上に通じている田口が指導すると、言葉が生命力をもつ。
 また、コンサートの前半では、やはりプッチーニの『トゥーランドット』からアリアが歌われる。イタリアのプッチーニ・フェスティバルでもこのオペラの題名役に抜擢された土屋優子(ソプラノ)が、圧巻の「この宮殿の中で」を聴かせ、やはりプッチーニ・フェスティバル等に出演している黒田詩織(ソプラノ)の叙情的なリューも絶品だと思われる。むろん、石井基幾の「誰も寝てはならぬ」は、聴き手に強い印象を残すだろう。
 アカデミーの実際とその魅力について記してきたが、それはとりもなおさず、修了生たちの歌唱が輝くということである。
 もちろん第二夜も同様で、それについては稿を改め、(2)に記したい。

村松恒矢(バリトン)林眞暎(メゾ・ソプラノ)
土屋優子(ソプラノ)黒田詩織(ソプラノ)