サントリーホール オペラ・アカデミー 修了コンサートを終えて
研修生たちの2年間を総括する
世界での活躍となって表れている学びの成果
サントリーホール オペラ・アカデミーの研修生や修了生の歌を意識的に聴くようになって、かなりの年月が経過した。ことに近年はそのレッスンを見学し、日本人のオペラ歌手が世界中で活躍できるようになるためには、このアカデミーのような指導が必要だ、という思いを深めている。
実際、学んだ成果が世界での活躍となって表れている。
この7月にはアドバンスト・コース第3期修了の大田原瑶(ソプラノ)が、北イタリアのソルデーヴォレでヴェルディ『ナブッコ』のアビガイッレ役を歌って、メディアからも高い評価を受けた。その直前の6月には、アドバンスト・コース第5期の修了を目前にした石井基幾(テノール)が、上海で上演されたタン・ドゥンのオペラ『TEA』に皇子役で出演し、絶賛された。
こうして研修生たちが羽ばたいていくという先々の楽しみまで付随するから、アカデミーの見学はやめられないが、2021年7月から2年にわたって学んだプリマヴェーラ・コース第6期生の10人と、アドバンスト・コース第5期生(先述の石井もその1人)の成果はどうだったか。
7月8日にブルーローズ(小ホール)で「修了コンサート」が行われ、それに向けてエグゼクティブ・ファカルティのジュゼッペ・サッバティーニが6月28日に来日、8日間の濃くて熱いレッスンが繰り広げられた。サッバティーニが不在のときはオンラインレッスンが重ねられたが、この対面レッスンで最大の効果が得られることはいうまでもない。
それらを振り返りながら、この2年間を総括してみたい。
1曲に2時間、3時間かける多面的な指導
修了コンサートでは、プリマヴェーラ・コースの歌手7人は、イタリアの室内歌曲から2曲を歌った。トスティやドナウディ、チマーラに加え、ロッシーニ、ベッリーニ、レオンカヴァッロ、マスカーニ、ザンドナーイらオペラ作曲家の作品である。伴奏はプリマヴェーラ・コースのピアニスト3人が担当した。
一方、アドバンスト・コースの3人の課題曲は、それぞれオペラ・アリアが2曲で、ピアノ伴奏はコーチング・ファカルティの古藤田みゆきが担当した。
各人が歌う曲が決まると、サッバティーニは1曲、1曲をていねいに聴き、指導を重ねていった。
アカデミー生たちはこれまでに歌唱の基礎を徹底的にたたき込まれている。サッバティーニが提唱する「シレーネ」というハミングに近い発声練習にはじまって、イタリア語の7つの母音、「a」「閉じたe」「開いたe」「i」「閉じたo」「開いたo」「u」のつくり方については、厳しい指摘が重ねられてきた。
このように母音をしっかり押さえたうえで声を息に自然に乗せ、欧米の原語を生きた言葉として響かせる方法を学ばないかぎり、日本人歌手は欧米人に太刀打ちできない。ところが、日本には音楽大学をふくめ、こうしてオペラを歌うための基礎を、欧米語を母国語とする人たちの肉体感覚に沿って体系的に学べる場所は、ほかにはほとんど見当たらない。
だからこそ、サントリーホール オペラ・アカデミーに価値があるのだが、さりとて、日本人がそれを修得するのが困難であることには変わりない。
修了コンサートに向けたレッスンでも、発音が基本から外れると、サッバティーニはすぐに歌を止めさせて指摘する。あるいは、「なめらかに歌えていない」「支えが足りない」「アクセントが足りない」「もっと美しく」といった指摘が次々と重ねられていく。
同時にサッバティーニは、曲の特徴、歌詞の世界を適切に表現できているかどうかにこだわる。そして、「温かい気持ちを歌っているのに、君の歌は冷たい」「恋する女性が歌っているのに、その心が伝わってこない」「もっと情緒を、情熱を表現して」といった言葉が投げかけられる。その際、歌詞に描かれた世界が具体的にイメージできるように、さまざまな実例を挙げて説明したりもする。
このため、1曲の指導に2時間、3時間を要することもあるが、曲をつくり上げる際に、このような多面的な指導をていねいに受けられることはきわめて意義深い。サッバティーニの言葉の数々を受けて、研修生たちの歌が大きく変わるのを見るたびにそう思う。
念のために補足すれば、研修生たちの歌が磨かれる機会は、サッバティーニの指導だけではない。7人の日本人のコーチング・ファカルティが一人ひとりの研修生と向き合い、問題点を修正し、長所を磨いたうえで、サッバティーニの指導を受けられるのである。
それぞれが力を発揮できた本番
だが、以前も書いたけれど、今期はとりわけプリマヴァ―ラ・コースの歌手たちには、困難が伴った。
2021年7月、すなわち新型コロナウイルス感染症の流行の真っただ中に受講がはじまり、選考の際も、サッバティーニは歌手たちの声をオンラインで聴くしかなかった。また、政府による水際対策のために、結局、サッバティーニの来日は2022年6月まで叶わず、オンラインのレッスンが中心とならざるをえなかった。そもそも飛沫が問題視される状況では、声を出すことさえ難しかった。
当初からそんな困難を抱えていただけに、修了を前にしての仕上がり具合は、例年にくらべて劣るようにも感じられた。しかし、結論を先に述べれば、それぞれの歌はレッスンを重ねるごとに整い、ゲネプロ(ゲネラルプローヴェ、総稽古)で一定の水準に達し、総じて本番はゲネプロよりも磨かれていた。
当たり前のことを述べていると思うかもしれないが、そうではない。まだ舞台経験が足りないアカデミー生たちは、緊張のために本番で力を発揮できないことが多い。本番が一番よかったということは、それぞれが本番に向けてのレッスンに集中して望み、高い緊張感を維持して自身を研鑽することができたということだ。
修了コンサートに向けてサッバティーニが来日した時点では、過去の研修生にくらべてクリアすべき課題が多いのが明らかで、わずか数日で整えられるのかと、かなりハラハラしたが、それが杞憂で終わったのは、うれしい誤算だった。それはアカデミー生たちの努力と集中の賜物だが、同時に、アカデミーのメソッドが本物であることの証だろう。学びの体系がまちがいないから、追い込みがきくのである。
この学びだからこその将来への期待
髙橋茉椰(ソプラノ)はリズム感に進歩が見られ、石本高雅(バリトン)は奥に引っ込んでいた声が開放されるようになった。牧羽裕子(メゾ・ソプラノ)は大劇場でも通じる響きに、以前よりコントロールが効き、潟美瞳(ソプラノ)は曲が破綻なくよくまとまっている。谷島晟(テノール)は端正な表現のもと歌心が深まり、伴野公三子(メゾ・ソプラノ)は洗練された声で難曲をよく制御した。東山桃子(ソプラノ)は曲にこめられた感情があきらかに豊かになった。
ピアニストは、岡山真奈は曲のもつ情感をよく引き出し、齊藤真優は歌手の呼吸にうまく寄り添うようになった。そしてプリマヴェーラ・コースが2回目の横山希は、その音楽性が比類ない。
アドバンスト・コースは、岡莉々香(ソプラノ)が体調不良のために本番で歌えなかったのが残念だったが、リリックな声も超高音もコロラトゥーラもたしかに磨かれてきた。萩野久美子(ソプラノ)は『ラ・ボエーム』のミミを抒情性豊かに表現した。そしてバリトンとして4年、テノールとして4年、計8年にわたりこのアカデミーで学んだ石井基幾は、2曲ともフランス・オペラのアリアに挑戦。フランス語はこれからだが、表現力とスケールはますます大きくなった。
このうちの何人かは、次年度も継続して学ぶ。さらなる成長が楽しみだし、修了生たちの活躍にも期待が増す。このアカデミーにおける学びを見れば見るほど、その思いは強くなる。