サントリーホール オペラ・アカデミー
修了コンサートに大きく期待する理由
ほかでは得難い学びを披露する場
毎年、7月が近づくと落ち着かない。とても楽しみにしつつも、心が穏やかでなくなる。まるで自分自身が舞台に立つかのように緊張し、拍手喝采を浴びる舞台姿と同時に、日々積み重ねた成果を発揮できずに意気消沈する姿をも想像してしまう。
要するに、平常心ではいられなくなるのだが、それもこれも、サントリーホール オペラ・アカデミーで学ぶ若い歌手とピアニストが、ほかの場では得難い学びを重ねてきたのを熟知しているからである。
アカデミー生全員が出演するコンサートは年に1回、この時期に行われる。とくに今回は2年に1回の「修了コンサート」だから、緊張の度合いが違う。このオペラ・アカデミーにはあとで述べるように2つのコースがあって、それぞれ2年にわたって学ぶ。このたび2021年7月から在籍した13名の若き演奏家たちが、このコンサートで学びに一区切りをつけるのである。
それはめでたい門出ではあるけれど、これからプロフェッショナルとして道を切り開いていけるかどうか、厳しく判断される場でもあるから、私はこの原稿を書きながらも落ち着いていられない。もてる力をたゆまず磨いてきた彼らが、アーティストとして大きく花開くように祈りながらも、期待が大きいだけに、心が平静ではなくなってしまう。
指導が正しいから耳に心地よい
いま「期待が大きい」と述べたが、それには理由がある。これまでも、サントリーホール オペラ・アカデミーの研修生や修了生の歌は、日本のほかの場で学んだ歌手たちの歌とあきらかに違っていた。むろん、このオペラ・アカデミー生の歌にも、歌手の数だけ個性があるが、耳に心地よいという点では共通している。
あまり強調するのもはばかられるが、現実には、心地いいとはいえない歌を聴かされる機会は少なくない。なぜかといえば、発声や発語のメカニズムを正しく踏まえながら学べる場が、日本にあまりないからである。だが、欧米で学べばいいという単純な話でもない。欧米の指導者は、欧米人とは大きく異なる日本人の肉体の特徴を理解し、理想的な楽器に仕立てる手腕にかぎれば、必ずしも長けているわけではない。
その点、サントリーホール オペラ・アカデミーはバランスがとれている。
なにより、名テノールとして世界の劇場を湧かせてきたジュゼッペ・サッバティーニが、エグゼクティブ・ファカルティとして指導の中心にいるのが大きい。サッバティーニは自身が提唱する「シレーネ」というハミングに近い発声練習にはじまり、イタリア語の7つの母音、すなわち「a」「閉じたe」「開いたe」「i」「閉じたo」「開いたo」「u」のつくり方を徹底的に指導する。そして、母音を軸に欧米の原語をしっかり発語し、生きた言葉として歌う方法を基礎から教える。
サッバティーニの音楽性は、現役時代から世界中で高く評価されていたが、その下支えとして群を抜いた耳の良さが指摘できる。感度が高い耳をとおして音の正否を的確に判断し、アカデミー生を指導するのである。
しかし、イタリア人のサッバティーニには当たり前のことや簡単なことでも、日本人にとっては常識外で、非常に難しいということも少なくない。そこを7人の日本人コーチング・ファカルティが埋めてくれる。日本人の肉体的特徴や、それゆえの得手不得手を知り尽くしている彼らが、サッバティーニの指導を各研修生に合うように翻案してくれるのである。
オペラは西洋の芸術だから、日本で学べることには限界がある。一方、歌手の「楽器」である肉体が、欧米人と日本人とでは異なる以上、欧米流のメカニズムを日本人の肉体に合うように落とし込む必要がある。サントリーホール オペラ・アカデミーはその双方が整った稀有な学びの場であり、だからここで学んだ人たちの演奏は、耳に心地よいのである。
将来の活躍を見とおせる曲の数々
さて、このオペラ・アカデミーは前述のように2つのコースに分かれている。発声の基礎の構築にはじまって、イタリア古典歌曲や室内歌曲までを勉強する「プリマヴェーラ・コース」と、その修了生から選抜され、アリアをはじめとするオペラの楽曲を学ぶ「アドバンスト・コース」。
現在、前者の第6期生は、歌手が潟美瞳(ソプラノ)、髙橋茉耶(同)、東山桃子(同)、伴野公三子(メゾ・ソプラノ)、牧羽裕子(同)、谷島晟(テノール)、石本高雅(バリトン)の7人。またピアニストとして、岡山真奈、齊藤真優、横山希の3人が在籍している。アドバンスト・コースの第5期生は、岡莉々香(ソプラノ)、萩野久美子(同)、石井基幾(テノール)の3人である。
今回の修了コンサートでは、プリマヴェーラ・コースの在籍生は、昨年夏のコンサート終了後に練習を重ねてきたイタリアの室内楽曲を披露。トスティなどのほか、ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティ、ヴェルディ、プッチーニ、マスカーニらオペラ作曲家たちの手になる歌曲もふくまれる。将来のオペラの歌唱が見とおせる曲の数々といえるだろうか。もちろん、伴奏するのは3人のピアニストである。
そして、アドバンスト・コースの在籍生は、イタリア・オペラのほか、フランス・オペラからもアリアなどを歌うことになる。こちらのピアノ伴奏は、コーチング・ファカルティの古藤田みゆきが担当する。
ハンディを見事に乗り越えて
じつはプリマヴェーラ・コースの10人、わけても歌手の7人は、それまでのアカデミー生にくらべて大きなハンディキャップを負っていた。受講がはじまった2021年7月はパンデミックの真っただ中で、選考さえもオンラインで行われた。その後もしばらくは、サッバティーニの来日はかなわず、生の声を聴いてもらうことはできなかった。
それだけではない。飛沫を避けるべき状況下では、しっかりと声を出すこともままならなかった。歌とは畢竟、呼吸であり息である。ところが、しっかりと呼吸をすることがはばかられる状況で学ぶことを強いられてきた彼らの困難は、いい尽くせるものではない。
それでもくじけずに学びつづけ、昨年のコンサートの前にはようやくサッバティーニの来日がかない、直接指導を受けることができた。その場で、サッバティーニは「いまのアカデミー生たちの水準は先輩たちにくらべて高くない」といい放った。歌うことも聴いてもらうことも制限されてきた彼らに向かって酷ではないか、とも感じたが、マエストロはその言葉で彼らを鼓舞したのだろう。
逆境を乗り越え、演奏を磨いてきたプリマヴェーラ・コース第6期生。3月の「オペラティック・コンサート」に、伴野、谷島、東山の3人が小さい役で出演し、成長した声を聴いたときは感無量だった。そして今回、全員の「耳に心地よい」輝きに接することができる。
アドバンスト・コース第5期生の3人に大きな成長が見られるのも、いうまでもない。バリトンとして4年、さらにテノールとして4年在籍した石井は、この4月に東京・春・音楽祭の『仮面舞踏会』にリッカルド役で出演し、リッカルド・ムーティに称賛され、6月には上海でタン・ドゥン作曲のオペラ『TEA』に初の日本人キャストとして出演。着々と足場を重ねており、あとの2人もそれに続こうとしている。
それでも私は、終演まで気持ちが落ち着かないと思われるが、私のような「親心」を抱えていないかぎりは、将来のスター候補の歌声、そしてピアノ演奏を、心地よく楽しめるはずである。