ずいぶん前、ガムランのための新作を依頼してくれた中川真氏は僕に「ガムランは常に響いており、人間たちの前に現れたり姿を隠したりする…」と話してくれた。僕の勝手な妄想かもしれないが、音楽が「人間のために、人間によって」生まれたものではないというこの発想はそれ以来、僕の中に留まっている。人類の文化がどれほど多種多様であっても音楽を持たない文化はないだろうし、古今東西人類は常に音楽によって宇宙から「何か」を聞き取ってきたということだ。聖歌から「神」を聞き取るのはもちろんだが、たとえそれが恋愛の歌であったとしても、人間は「愛」という名付けようのない「何か」を音楽によって分かち合わずにはいられないのである。
2023年の夏。日本における西洋音楽の殿堂サントリーホールで何が行われるべきか、いや、何をしたら「意味をなす」のか。明治以来、みずからの伝統文化を横目で見ながら西洋芸術(音楽)を受容し続けてきた僕たちは今、この「歴史」について考えてみる時だと思う。言うまでもなく、西洋音楽は地球上に生まれた数ある音楽の中でもきわめて特異な性質を持っている。「書き記される音楽」であるそれは、同じ音楽「作品」を繰り返し「再現(演)」可能にし、「分析」可能にし、新たに「作曲」可能にした。それによってたとえば今日、東京で初演された難解な管弦楽作品が来月にはドイツの演奏家たちによってベルリンで再演されることが当然のように可能になったのである。もちろん、それは素晴らしいことだし、昔は「だから西洋音楽には“普遍性”があるのだ」と真顔で言う人もいた。しかし、その「素晴らしさ」が僕らに何をもたらしてくれたのだろうか。その音楽の力によって地球上の人類は「国境を超えて」互いをより深く理解し、信頼し合い、平和に暮らし、自然を慈しむようになったのだろうか。そうではなく、その「素晴らしさ」と引き換えに僕らは何か大切なものを手放してしまったのではないか。それは、永遠に続く電力供給と、ついに人間の能力を凌駕したAIなどの強大な科学技術を前提として生存するようになった現人類がやはり完全に「手放してしまったもの」と相似形をなしているように見える。つまり、定量記譜法(五線譜)の発明を例に挙げるまでもなく、歴史的に西洋音楽もまた、人類を席巻した論理的、合理的な「知のありかた」によって形作られてきたようにみえるからだ。そして、そのような「知のありかた」は人類史にとって“普遍的”で、唯一無二の可能性だったのか、いや、たとえそうだったとしても、そもそも人類はこれからもそれを堅持していけるのだろうかと僕は疑っている。
ずいぶん前から、僕は「あり得たかもしれない音楽」というものを考えてきた。それは「新しい音楽」ではない。現実には存在していない、もしかしたら地上にあったかもしれない音楽を想像/創造してみるということである。それは、ある意味で架空の伝統芸能のようなものを考えてみることに近いだろう。そのような中で僕は「本当にある」ガムラン音楽と出会った。当然のことだが、そこにはひとりの個人が考えうる「あり得たかもしれない音楽」の想像力を遙かに超えた、確固たるコスモロジーがあり、「あり得たかもしれない音楽を考えるのだ!」などという僕の妄想をあざ笑うかのような具体性と多様性、そして西洋音楽における論理性、合理性とは異質の明晰さがあった。楽器や音律、演奏形態などをはじめとする、この完璧で、しかも極めて精緻なガムラン音楽が示唆する叡智こそ、あたかも“唯一無二”のように見えていた西洋的な「知のありかた」と、それに支配された近・現代の人間世界を見つめ直す鍵となるのではないか。
しかし、このことはガムラン音楽に真剣に向き合ってきた世界中の人々にとっては、「今さら言うまでもない」ことかもしれない。考えるべきは現代世界におけるガムラン作品創造の困難さについてだろう。そもそも、それは可能なのか。なぜなら、現代音楽における新作の委嘱や発表形態(コンサート)それ自体が西洋音楽の歴史が生み出した制度に他ならないからだ。つまり、僕がインドネシアで聞いたガムランがまさに人々が生きる空間で営まれる共同体の音楽であったのに対して、外部環境から完全に遮断されたコンサートホールで発表されるガムランの「新作初演」は、あくまでも西洋音楽の「枠組み」の中で行われるものだ。そこでは、メディア装置を介して鑑賞される音楽や映像「作品」同様、それらも物珍しい「コンテンツ」にしかならないのではないか。僕が期待する、ガムランが暗示する「知のありかた」もまた、“普遍的な”西洋音楽という枠組みにおける風変わりなアイデアのひとつと見做されてしまうだけなのではないか。
…そうかもしれない。しかし、これからはそうではないのかもしれない。いずれにせよ今、僕と同じ時空を生きる作曲家たちが試みる「ガムランの新作」が聞きたい。なぜなら、前世紀の文化人類学者たちが記録用の機材を担いで未開の地に赴き、フィールド調査に熱中していたような時代を後にして、彼らはもはや「西洋音楽」の文脈(枠組み)からは自由に創作を続けている作曲家たちだからだ。つまり、彼らはガムラン音楽を好奇の目で見るわけでもなく、ごく自然にガムランに学び、みずからの表現に結びつけている。だから、「3管編成のオーケストラならこう書くが、ガムランのためならこう考える」ということが自然にできる感性と能力を持つ彼らは、新作を通して「西洋音楽は一体、何を手放してしまったのか」などと、ことさら意識する必要もないのかもしれない。ただ、今回の新作がその問いを思い起こさせてくれるとするなら、たとえそれが、すぐにまた「西洋音楽」として回収されてしまうとしても、今回の委嘱初演を僕は無意味だったとは思わないだろう。
2023年3月15日 三輪眞弘