3月9日、13日に「サントリー音楽賞受賞記念コンサート」に出演するピアニストの河村尚子さん。
当日配布のプログラム冊子に掲載されるご自身の写真にまつわる思い出を「フォトエッセイ」としてお寄せいただきました。
3月13日に共演する指揮者・山田和樹さんが「華やかさがあって、人物にも華があって。その人柄の屈託のないところがピアノにもあらわれている。等身大でもある」と表現する河村さん。
その人柄と生い立ちがうかがえるあたたかなエピソードを、写真とともにお届けします。
1985年~1987年
四人の女の子が写っている写真。幼い頃の思い出といえば、兵庫県西宮市段上町の団地内で毎日元気よく遊んでいたことだけだ。他の皆は実に女の子らしい格好をしているのに、一人だけ男の子みたいな身なりと表情...。
1986年8月末、母は三人の子供を連れてデュッセルドルフ行きのルフトハンザ機に乗り込んだ。航空中、配られたHARIBOのグミべアを初めて食べたことを今でも鮮明に覚えている(あの頃から食い意地だけは張っていた)。
真夏の日本から寒い寒いドイツの秋へ突入。ボンにあるベートーヴェン生誕家にて母の後方にうっすら見えるベートーヴェン像前で記念写真。
デュッセルドルフからボンまで鉄道の行程(1時間弱)、寒くて疲れたのか席に着いた途端、家族全員が居眠ってしまい、ボン駅を見事通過! たまたまボン駅で目を覚ました5歳児は一体どうして良いのか分からなかったが、両親も寝ているし、取り敢えず大丈夫なのだろう、という確信の方が大きかったようだ。
1991年~1992年
小学校6年生の1学期まで通ったデュッセルドルフ日本人学校。5年生からクラブ活動で器楽部に入部、小太鼓を叩くことに。ほぼ独学だったが、グループで合奏することが、とても楽しかった。運動会の入場マーチや国歌など、様々な曲を「叩いた」。
1992年5月、着慣れないドレスと靴でドレスアップして登壇したのはデュッセルドルフの音楽ホールであるトーンハレ。ドイツ青少年音楽コンクールの州大会にてまさかの1位を頂き、受賞者記念コンサートで晴れ舞台。
しかし、このコンサート前に大きなアクシデントが!! 春休みには毎日のように友人と遊び呆けていた私。何せ活発だったので、エネルギーを外で発散しなくてはならなかったのだろう。スケートボードに乗って坂を下る、という誰がどう見ても危ないことをしていた。正直あまり上手ではなかったので、スケボーに座り乗りしていた。ボードを手で支えながら、もう少し安定感が欲しいばかりに握り直した瞬間、スピードを上げて下っていた坂の地面とスケボーのタイヤとの間に左手の薬指が...。指からあふれ出す血をどうして良いのか分からないまま、一緒に遊んでいた友人宅に向かい、友人の母親に緊急手当てをしてもらった。
あの時、何故自宅に走らなかったのかは今でも不思議ではあるが、きっと母親の怒る顔を見たくなかったのだろう...。今でもその傷跡はあるが、あれ以来、スケボーには一切乗らなくなった。
1993年~1996年
1993年11月よりマウゴルジャータ・バートル゠シュライバー女史に師事することになる。
女史はポーランドのジェショフ市生まれ。ワルシャワ音楽院にてバルバラ・ヘッセ゠ブコフスカに師事した後、80年代後半にドイツへ移住。1991年、ドイツ中部にある大学街ゲッティンゲンに国際ショパン・コンクールを設立し、1995年まで主催者として活躍した。バートル゠シュライバー先生と出会ったのは、1993年にそのショパン・コンクールに参加した時だった。当時11歳。
東欧の凄まじい英才教育で鍛え上げられてきた子供たちが演奏する中、のんびりと緩やかな教育を受けていた私は15位。しょんぼりとデュッセルドルフへ帰宅したことを覚えている。
同年11月、ハンブルグで行われたスタインウェイ・コンクールにて先生と再会。そこから、5年間の厳しいピアノ教育が始まった。先生は皮肉をたっぷりと込めてご自分のことを「悪魔女」(Die böse Hexe)や「毒蛇」(Die Giftschlange)と呼んでいらしたが、そのあだ名通り常に毒舌で、それまで平和に暮らしてきた子供にとって、あり得ない人物だった。そんな反面、ちゃらんぽらんな私を相手に、愛情と情熱が無ければ出来ないレッスンを何時間も続けて下さった。
演奏についてのみならず、言語やステージ上の振る舞いなど、教わることは山ほどあった。彼女に出会わなければ、現在の私の音楽活動は不可能であっただろうし、又、彼女の教えは、教鞭活動に大いに活用させて頂いている。
バートル゠シュライバー先生がキプロス島リマソル市で行ったマスタークラスの期間中、古代ギリシャの野外劇場を訪れたときの写真。左から先生、受講生、私、先生のご主人。
2003年
2003年6月、ゲザ・アンダ・コンクールの決勝戦でチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団とテオドル・グシェルバウアー氏(Theodor Guschlbauer)とショパンのピアノ協奏曲第2番を共演し、第3位を受賞。このコンクールは、事務局が上位3人のコンサート・マネジメントを3年間引き受けてくれる、という大変ユニークなコンクールだった。この決勝戦の演奏が、後の日本での音楽活動に繋がるとは、夢にも思っていなかった。審査委員長を務められた指揮者のヴラディーミル・フェドセーエフ氏が大変好意的に私の日本デビューのきっかけを作って下さったのだった。
決勝戦の半年後、東京フィルハーモニー交響楽団の事務局から電話が一本自宅に入った。なんと、首席客演指揮者であるフェドセーエフ氏が私を定期演奏会に招待して下さると! 会場は東京オペラシティとサントリーホール!! 耳を疑うわ、頬っぺたをつねるわ、甘い夢でも見ているのか?
2003年8月フランス、アヌシーにて開催された芸術祭に出演。同時期、芸術祭にバレエ・マスタークラスの講師としてパリ・オペラ座の元エトワール・芸術監督のパトリック・デュポン氏が招聘されていた。共に食事をしたり、私が彼の講習会を聴講していたからか、デュポン氏がコンサートを聴きに来て下さった。つい数年前、病のため他界してしまったデュポン氏。残念ながら生のステージを見ることはできず、映像のみの鑑賞となってしまったが、彼の桁外れの才能はど素人の私が見ても分かる...。
2004年
2004年4月、モスクワ音楽院のチャイコフスキー像の前にて撮影された写真。
ハノーファー音楽大学で師事していたヴラディーミル・クライネフ氏がコンサートをキャンセルされて、 彼の学生3人が急遽代役としてモスクワ音楽院の大ホールでオーケストラと共演するチャンスを得た。なんとラッキーなことだっただろう、と今でも思う。おこぼれを頂いた私は、ラヴェルの協奏曲ト長調を演奏し、演奏会後、トレティアコフ・ギャラリーで沢山の傑作を観て、ボリショイ劇場で「ジゼル」を鑑賞した。
同年11月、東京オペラシティにて東京フィルハーモニー交響楽団との日本デビュー。フェドセーエフ氏がきっかけを作って下さった演奏会がこちら。しかし、彼は病のため来日をキャンセル。私は彼との共演のチャンスを逃すことに。その日、指揮台で代役を務められたのは「炎のコバケン」の名称で愛される小林研一郎氏だった。
2004年12月 ハノーファーのクライネフ先生のご自宅で先生のご家族、クラスメイト達と集った夕べ。常時アネクドート(笑い話)を話していらっしゃったクライネフ先生。お茶目で常に笑いが絶えない方だった。間違いなくドイツの大学に通っていた私は、ハノーファーでは明らかにロシアの空気を毎日のように呼吸して過ごしていた。