サントリーホール オペラ・アカデミー「オペラティック・コンサート」への期待
近未来のスターの耳に心地よい歌
たとえば野球でも、サッカーでも、スポーツの世界では、近い将来に開花しそうな才能に注目が集まる。近未来のスターに目星をつけ、その成長をリアルタイムで見守りたいと願う人が、少なくないからだろう。
じつは音楽、そしてオペラの世界においても、同様の楽しみが得られる。輝きを秘めた原石を発見したときのよろこび、それが順調に磨かれていくのを見届けながら覚える高揚感は、なにものにも代えがたい。
私の場合、この日本にそういう場がないかと見まわしたとき、あきらかにキラキラと輝いているので、おのずと目が離せなくなるのが、以前からサントリーホール オペラ・アカデミーだった。
もう何年も前から、このアカデミーの研修生や修了生が歌うときには、できるかぎり欠かさずに聴くようにしているが、それには理由がある。簡単にいうと、彼らの歌は聴いていてストレスが溜まることが少なく、さらにいえば、耳に心地よいからである。
アカデミー生たちは原則、全員がプロの音楽家をめざしているが、まだ目標に向かって研鑽を重ねている。一般に、世に出る前の若者の表現は、スポーツにおいても芸術においても、天与の傑出した才能をのぞけば、見守る側にとってぎこちなく感じられることが多い。基礎が固まる前に先を急いで自己流に陥るという、少なからず見受けられるケースにおいては、なおさらそうである。
しかし、サントリーホール オペラ・アカデミーの研修生にかぎって、そういう事例が少ない。その最大の理由は、このアカデミーの指導にある。
もっとも大切な基礎が正しく身についている
周知のとおり、オペラは西洋の芸術だから、日本における日本人指導者のもとでの学びには限界がある。日本料理の板前をめざすイタリア人にとって、イタリア国内で学べることにかぎりがあるのと同じ理屈である。
その点、このアカデミーほど、日本語とは異なる欧米系言語の発声メカニズムと正面から向き合い、日本人が忘れがちだが、じつはもっとも大切な基礎の習得を課題の中心に据えている学びの場は、日本にはほかに存在しない。
エグゼクティブ・ファカルティはもう10年以上、往年の名テノール、ジュゼッペ・サッバティーニが務めている。私は以前からレッスンの見学を重ねているが、このマエストロの耳のよさと、よい耳をとおして音の正否を的確に判断する能力の高さには、いつも脱帽させられる。
サッバティーニは、みずからが提唱する「シレーネ」というハミングに近い発声練習にはじまって、イタリア語の7つの母音、すなわち「a」「閉じたe」「開いたe」「i」「閉じたo」「開いたo」「u」の作り方を徹底指導し、その母音をつなげ、さらには言葉として歌うための基礎を、いわば一から教えている。
アカデミーはイタリア古典歌曲や室内歌曲を学ぶ2年間のプリマヴェーラ・コースと、その修了生から選抜された、アリアなどオペラの楽曲を学ぶ2年間のアドバンスト・コースに分かれる。そして、プリマヴェーラ・コース生であっても、みな音楽大学の学部は卒業しているが、日本の音大では、サッバティーニが教える「基礎」があまり身につかないのが現実で、だから彼は「一から教えて」いるのである。
加えて、日本人ファカルティたちの指導という支えもあって、このアカデミー生たちの歌は、基礎からの正しい積み上げという点で、ほかで学んだ日本人の声楽家志望者たちと一線を画している。だから、彼らの歌は聴いていてストレスがたまらず、耳に心地よいことが多いのである。
この3年間はコロナ禍の影響で、とりわけ飛沫と切っても切れない声楽家たちの活動は制限を受け、学びの場も奪われてしまった。ダメージはけっして小さくないが、たとえオンラインであっても、このアカデミーで本物の学びを続けられたことは、どれだけ価値があったか、言葉で表現しきれない。
全曲観たくなるに違いない
さて、オペラティック・コンサートでは、アドバンスト・コース第5期の3人の歌手(岡莉々香、萩野久美子、石井基幾)が、すでにオペラの現場で活躍している修了生2人(髙畠伸吾、迫田美帆)と共演し、そこにプリマヴェーラ・コース第6期の2人(東山桃子、伴野公三子)も加わって、19世紀のイタリア・オペラから3つの名場面を届ける。
まず、ドニゼッティ『ランメルモールのルチア』の第1幕から。萩野(ソプラノ)が演じるルチアが、劇的な装飾を交えて不安定な心を表現するラルゲット、それに続く、エドガルドを愛するよろこびを歌うカバレッタで、ルチアの心情にどう迫るか。小さな役だが、深く艶やかな声が魅力の伴野(メゾ・ソプラノ)が歌うアリーサも聴き逃せない。
そこに石井(テノール)演じるエドガルドが加わっての二重唱では、石井が持ち前の劇的な声をどうコントロールして、リリックな萩野の声とからめるか。
同じドニゼッティ『愛の妙薬』の第2幕では、髙畠(テノール)の表情豊かなネモリーノを相手に、コロラトゥーラや超高音もふくめて歌が磨かれてきた岡(ソプラノ)が、ネモリーノの純愛に心を打たれたアディーナの心情を、旋律にニュアンスを込めながら描ききるのではないだろうか。
そして、ヴェルディの『ラ・トラヴィアータ(椿姫)』の第1幕、第2幕では、ヴィオレッタの揺れる心を、オペラの第一線で躍進を続ける迫田(ソプラノ)による充実の表現で味わえる。
また、石井はすでに一昨年10月、サントリーホールにおける「若き音楽家たちによるフレッシュ・オペラ」で、アルフレードを全曲とおして披露し、情熱を内に秘めた端正な歌唱で称賛を勝ちとっている。さらなる成長が確認できるのもうれしい。
それぞれの名場面になじんでいる人も、そうでない人も、当該オペラを全曲とおして観たくなるに違いない。まっすぐに成長している歌手の歌には、そう思わせる力がある。だから、全曲を楽しむときはこの歌手たちで──。そう願う人も少なくないのではないだろうか。