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【特別寄稿】

河村尚子 第51回サントリー音楽賞受賞記念コンサートに寄せて

恩田 陸(作家)

恩田 陸 

 初めて河村尚子のピアノを聴いた時の驚きは、今も強く印象に残っている。
 東京オペラシティのコンサートホールのリサイタルで、どの曲も素晴らしかったが、特にショパンのピアノ・ソナタ第二番には衝撃を受けた。
 その衝撃を、当時はうまく言い表せなかったのだが、ずっと考えてきて、ようやく理解できてきたように思える。
 それまでも、長らくピアノが好きで聴いてきた。好きなピアニストもたくさんいたし、好きな音というのもあった。その技巧についても、比べられるほどには、多少は承知していたと思う。
 しかし、河村尚子のピアノを聴いて、初めて、自分は「ピアノ曲」を聴いていたのであって、決して「ピアノ」を聴いていたわけではなかったのだ、と気が付いたのだ。
 ピアノは誰が叩いても鳴る。誰が叩いても、同じ高さの音が出る。いわば、ピアノは八十八色の絵の具が並んだパレットで、誰がどの絵の具を筆に含ませて画用紙に走らせても、同じ色が出せるのだ。その原色の絵の具で、曲という絵を描く。
 ところが、河村尚子は、決してそのままの色は使わないのである。一色たりとも押し着せの絵の具は使わず、どの絵の具にも、彼女が独自に調合し、考え抜いた顔料を加えて、自分が満足できる色にしてから八十八色を自分の中のパレットに並べ、それを使って絵を描いていく。
 そのことは、河村尚子が「どんなピアノでも弾ける」と明言していることからも窺える。
 ピアニストには、使い慣れたよく知っているパレットのほうが安心して絵を描ける、という人も多い。けれど、河村尚子の場合、自分の内側にパレットを持っているので、ピアノには絵が左右されないのである。
 なるほど、自分の音を作る、というのはこういうことなのか。ピアノを弾く、というのはそれぞれの自分の音を鳴らすということなのか。遅まきながら、やっとそう気が付いたのだ。
 彼女のピアノで「ピアノ」を聴くことができるようになってから、少しずつ他のピアニストの「ピアノ」も聴けるようになってきた。原色の絵の具のままで絵を描いている人と、自分のパレットを持っている人との違いが分かるようになった。
 それと並行して、彼女の年々充実していく演奏を聴くのはとても面白く、特に最近はその演奏を聴くたびに、なぜか「文武両道」という言葉が頭に浮かんでしまう。
 スケールの大きな、どっしりした構えの、説得力抜群の音楽を構築する明晰さ。
 演奏する時の、明るい生命力に溢 れた、しなやかな運動神経の良さ。
 その両者ががっちり噛み合って、河村尚子の音楽を輝かせている。
 これからも、その輝きと、更なる充実と、円熟に向かう過程を、一ファンとして聴いていくのが楽しみだ。

恩田 陸 
河村尚子(2014年公演より)

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