【曲目解説】 サントリーホール ジルヴェスター・コンサート 2022
ウィーン・フォルクスオーパー交響楽団の大みそか
ヨハン・シュトラウスII世:オペレッタ『くるまば草』序曲
題名の「くるまば草」は、茎から車輪のような葉が出ることからそう呼ばれる森の草花で、ドイツではリキュールの材料としても使われる。ヨハン・シュトラウスⅡ世(1825~99)70歳の1895年にアン・デア・ウィーン劇場で初演されたこのオペレッタは、ドイツ中東部ザクセン地方の田舎を舞台に、森で林業に従事する人々や役人、植物学の教授、ドレスデン歌劇場のソプラノ歌手といった人物たちが登場し、変装と取り違えの恋愛喜劇をくり広げるもの。初演当時はそこそこの人気を博したというが、このオペレッタがこんにち舞台にかかることはほとんどない。しかしその序曲は、ぜひ一度オペレッタの全体を舞台上演で観てみたいと思わせるような、変化に富む楽しい曲だ。
ヨハン・シュトラウスII世:オペレッタ『こうもり』より チャールダーシュ
オペレッタ『こうもり』(1874年ウィーン初演)は、ワルツ王ヨハン・シュトラウスⅡ世が書いた、ウィーン・オペレッタの黄金時代を代表する飛び切りの傑作。大都市近郊の温泉保養地を舞台に、カネとヒマを持てあますロシアの王子が豪華な夜会を開き、そこに集まった人々がふだんとは違う自分に成りすまして恋のアヴァンチュールにウツツを抜かす。その第2幕、「ハンガリーの伯爵夫人」というふれこみで夜会に現れた人妻ロザリンデは、周囲の人々から「あなた本当にハンガリーの方?」と疑われ、このあまりにも定番的ハンガリー色を過剰なまでに打ち出したチャールダーシュ(ハンガリーの民族舞曲)の歌を披露することで、人々を完全に納得させる。曲はスローでメランコリックな前半から、目くるめくようにスピード・アップする後半に向かうにつれて、ハンガリー・ムードがいや増しに盛り上がる。「故郷の調べ、それは私に憧れを呼びおこし、私を泣かせる。ああ、私が幸せのうちに過ごした故国ハンガリー! そこでは太陽が輝き、森は緑深く、草原はやさしく微笑む……」[歌詞は大意・以下同様]
ヨハン・シュトラウスII世:ポルカ・シュネル『観光列車』作品281
1864年1月19日、「産業協会舞踏会」で初演されたポルカ・シュネル(速いポルカ)。1837年にオーストリア帝国内で最初の蒸気鉄道が開通されて以来、鉄道網の拡張は順調に進み、旅行熱の高まりとともに、1860年代にはさまざまな観光列車が走るようになる。鉄道事業は、オーストリアの産業の中で大きな地位を占めるものになっていたのだ。曲は、蒸気を上げながら山野を快調に走行する観光列車の楽しげな光景をほうふつとさせるもの。途中で、列車の発車の際に当時よく使われていたラッパのシグナルが聞こえる。
ヨハン・シュトラウスII世&ヨーゼフ・シュトラウス:『ピッツィカート・ポルカ』
ワルツ王ヨハン・シュトラウスII世は1856年以降、毎年のように夏のシーズンにはサンクトペテルブルク近郊のパヴロフスクに客演するようになり、ロシアの聴衆とのつながりは年を追うごとに深まった。1869年6月、ヨハンは弟のヨーゼフをパヴロフスクへの客演に同行させ、合同でコンサートを開催する。このパヴロフスク滞在中に書かれ、初演されたのが『ピッツィカート・ポルカ』である。曲全体を弦のピッツィカート奏法で通すという珍しい趣向のこの曲は、兄弟の共作ということになっており、アイデアや曲想がどちらに由来するものであるかは、はっきりしない。初演は大成功をおさめ、シュトラウス・ファミリーの曲の中でも最もポピュラーなもののひとつとなった。
レハール:オペレッタ『この世は美しい』より「この世は美しい」
ウィーン・オペレッタの「白銀時代」を代表する作曲家フランツ・レハール(1870~1948)が作曲した最後から2番目のオペレッタ『この世は美しい』は、1930年にベルリンで初演された。1900年ごろのスイス・アルプスの山岳地帯を背景に、ヨーロッパの王国の皇太子(ゲオルク)と別の王家の娘(エリーザベト)の出会い、そして2人が幸福な結婚にいたるまでの愛の軌跡が描かれる。オペレッタの題名ともなっているこの曲は、ゲオルクがエリーザベトへの愛を予感しながら歌う登場の歌。ゲオルクの胸を充たすあふれんばかりの幸福感が、ワルツのリズムで歌い上げられる。「幸福がメルヒェンを語り、愛が花開くとき、この世は美しい。幸福が永遠の愛の歌を歌うとき、この世は美しい。幸福のほのかな光に愛が明るく照らされるとき、この世は美しい。……」
ヘルメスベルガーII世:『悪魔の踊り』
ヨーゼフ・ヘルメスベルガーII世(1855~1907)は、ウィーンで活躍した作曲家、指揮者。祖父も父も叔父も音楽家という家系に生まれ、6歳にして早くも父の楽団でヴァイオリンを演奏したという。長じてはウィーンの歌劇場やオーケストラでヴァイオリニスト兼指揮者として活躍するとともに、数多くのオペラ、オペレッタ、歌曲、ダンス音楽、バレエ曲などを作曲した。1901年から03年にかけては、マーラーの後任としてウィーン・フィルの常任指揮者も務めている。こんにちあまり知られていない彼の作品のなかで、この『悪魔の踊り』は、小澤征爾が指揮した2002年のウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサートで演奏されたことで、その後演奏される機会が増えたのかもしれない。曲にはタイトルにふさわしい悪魔っぽい雰囲気も出ていて、なかなか魅力的だ。
カールマン:オペレッタ『マリッツァ伯爵家令嬢』より 「ああ、今日はなんて素敵なことが起こるのだろう!」
エメリヒ・カールマン(1882~1953)は、レハールより少し後の世代のハンガリー出身のオペレッタ作曲家。彼の作品で『チャールダーシュの女王』と並ぶ傑作が『マリッツァ伯爵家令嬢』(1924年ウィーン初演)だ。ハンガリーに広大な農園を持つマリッツァ伯爵家令嬢と、そこで管理人として働く没落貴族タシロとの紆余曲折に満ちた恋物語が展開する。第2幕、マリッツァとタシロはしばし現在の身分の違いを忘れ、互いに相手を好ましく思う気持ちが高まるなかで、この二重唱を歌い始め、やがて躍動感あふれる曲にのってワルツを踊り出す。「(タシロ)ああ、今日はなんて素敵なことが起こるのだろう! こんなに嬉しくて、素敵な気持ち!(マリッツァ)胸がドキドキして、気持ちが高まるわ! (二人)もう一度踊りたい、以前、5月に踊った時のように! 甘美なワルツは、幸せをもたらしてくれる!……」
レハール:ワルツ『金と銀』作品79
ハンガリー出身のレハールは、1899年、軍楽隊の指揮者としてウィーンへやってきた。パレードや舞踏会での演奏に明け暮れる日々のなかで、1902年に作曲され、大ヒットしたのがこのワルツ『金と銀』だ。曲はいかにも世紀転換期のウィーンらしい、華やかで逸楽的な雰囲気を持つ。ちなみにワルツ冒頭の「ソ・ドー・レ・ミ・ソー」と上昇するフレーズは、レハール最大の成功作『メリー・ウィドー』(1905年)のなかでも、「ヴィリアの歌」と「メリー・ウィドー・ワルツ」で用いられている。レハールにとって、「ソ・ド・レ・ミ」は、成功を約束する旋律だったのかもしれない。
ツィーラー:ワルツ『夜更かし大好き』作品466
カール・ミヒャエル・ツィーラー(1843~1922)は、ワルツ王シュトラウスより少し後の世代のウィーンの作曲家。オペレッタのほか、ワルツやポルカを多数作曲し、1907年以降はウィーンの宮廷舞踏会の指揮者も務めた。シュトラウス父子ほど有名ではないツィーラーだが、魅力的な曲を多数残している。この『夜更かし大好き』(19世紀末の作曲)も、ツィーラーの音楽の特長がよく現れた愛すべき曲だ。ウィーンの酒場で夜通しワインを楽しむ呑兵衛たちに捧げる曲、といったところだろうか。曲の途中に楽団員たちの合唱が入る。「友よ、さて、どうしようか? もう家に帰るか、それとも、夜明けまで飲み続けるか? 夜が明けたら、家に帰ってぐっすり寝よう……」そのあとには、ひとしきり懐かしいウィーナーリート(ウィーンの都市民謡)のような優しい旋律が口笛で吹かれ、やがてツィーラー特有の躍動感あふれるワルツへと進んでゆく。
レハール:『ジュディッタ』より「友よ、人生は生きる価値がある」
「オペレッタ」ではなく「音楽喜劇」と銘打たれた『ジュディッタ』は、レハール最後の舞台作品。1934年、作曲者の長年の念願かなって(オペレッタ劇場ではない)ウィーン国立歌劇場で初演された。地中海沿岸地方を舞台に、陸軍大尉オクターヴィオと人妻ジュディッタとの運命的な、しかし結局は実ることなく終わった愛の物語が展開する。「友よ、人生は……」は、まだジュディッタに出会う前のオクターヴィオが、にぎやかな酒場でワインを飲みながら屈託無く人生を賛美してうたう歌。「友よ、人生は生きる価値がある。毎日すばらしいことが起こり、新たなことが体験できる。……夜の巷からは恋のささやきが聞こえ、甘い歌声が響く。最高に美しい女性が、今夜のうちにも君のものになるかもしれない。この世はすばらしい!……」
ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ・シュネル『おしゃべりな可愛い口』作品245
ワルツ王の弟ヨーゼフ・シュトラウス(1827~70)は、当初は音楽家になろうとせず、ウィーンの工科大学で学んでエンジニアの道を進んでいたが、1849年に父ヨハン・シュトラウスI世が死去すると、兄の活動を助けることを求められ、1853年、気の進まないまま指揮者・作曲家としてデビューした。その後、1870年に42歳の若さで亡くなるまでの17年間に、300曲以上の作品を残している。ヨーゼフの楽才は兄ヨハンに勝るとも劣らず、作品には個性的な題名や魅力的な曲想のものが多い。1868年に作曲されたポルカ・シュネル『おしゃべりな可愛い口』は、当時10歳だった作曲家のひとり娘カロリーネの倦むことを知らぬおしゃべり好きを描写した、一種の「冗談音楽」だったようだ。軽快かつ高速で進む曲の随所で鳴り響く「ジリジリジリ」というようなラットル(振って音を出す音響玩具/ガラガラ)の音は、カロリーネの絶え間ないおしゃべりの様子を表しているのだろう。
カールマン:『マリッツァ伯爵家令嬢』より「ジプシーが弾くヴァイオリンを聴けば」
『マリッツァ伯爵家令嬢』の第1幕でマリッツァが歌うすこぶる魅力的な名曲。ひさしぶりでウィーンからハンガリーの農園に帰ってきたマリッツァは、農民やジプシーの楽師たちにあたたかく迎えられ、ハンガリーの風情にひたりながらこの歌をうたう。ジプシー・ヴァイオリン、ツィンバロン、チャールダーシュ、トカイ・ワイン、熱い口づけ……と、定番アイテムで哀愁と情熱のハンガリー・ムードがぐんぐん盛り上がる。「ジプシーが弾くヴァイオリンを聴けば、私は心がとろける。あらゆる望みが目を覚ます。……さあ、こちらへ来て弾いておくれ、ジプシーよ!……愛はどこにあるの? 一度だけでも愛の炎で火だるまになるようなキスをしたい……」
ロサス:ワルツ『波濤を越えて』
この曲、メロディーが聞こえてくれば誰もが「ああ、あの曲か」と思い出すだろう。耳にしたのは遊園地の自動オルガンで? メリーゴーランドで? それともサーカスで? なんとも懐かしい曲だ。作曲者のフヴェンティーノ・ロサス(1868~94)は、メキシコの出身。貧しい先住民の家に生まれ、少年時代から教会や街頭で演奏を始め、ほとんど独学でヴァイオリンの演奏とダンス音楽作曲の腕を磨いた。オーケストラやバンドを率いて、メキシコ国内だけでなく、キューバやアメリカ合衆国にも演奏旅行に出かけた。数ある作品のなかで最も(というか、おそらく唯一)有名なのが、このワルツ『波濤を越えて』(1891年)だ。ワルツ王シュトラウスの曲と勘違いしても不思議はないような曲で、静かに始まる導入部など、『美しく青きドナウ』に似ていなくもない。とはいえ、その「波濤」は、たぶんメキシコ湾やカリブ海のそれなのだ。ロサスは26歳という若さで亡くなってしまった。長寿をまっとうすればもっと多くの名曲を残したかもしれず、夭折が惜しまれる。
ヨハン・シュトラウスII世:ポルカ・シュネル『ハンガリー万歳』作品332
1867年、オーストリア帝国は、独立を求め続けてきたハンガリーに自治権を認め、オーストリア゠ハンガリー二重帝国を発足させるに至った。シュトラウスⅡ世が作曲し、「気高いハンガリー国民」に捧げたこのポルカ・シュネルは、1869年3月16日、ハンガリー自治2周年を記念してブダペストの王宮で開かれた舞踏会で披露された曲。快速で目くるめくように進む曲の最後の部分では、ハンガリー愛国の曲として知られ、エクトール・ベルリオーズ(1803~69)やフランツ・リスト(1811~86)も曲の素材として用いた『ラーコーツィ行進曲』の一節がほんの一瞬だけ現れる。
ヨハン・シュトラウスII世:『シャンパン・ポルカ』作品211
1858年8月、ロシアの保養地パヴロフスクで「舞踏会のシャンパン」というタイトルのもとに初演されたこのポルカには、「音楽的冗談」という副題が付いている。シャンパンの栓を抜く音が何度も入ったりして、フルートや弦楽器が泡立つシャンパンの様子をほうふつとさせる、心が浮き立つような軽快な曲だ。ウィーンでは同年11月にフォルクスガルテンでの演奏会で初めて演奏され、その際曲名が「シャンパン・ポルカ」に変えられた。曲は当時の大蔵大臣カール・フォン・ブルック男爵に献呈されたが、男爵は翌1859年、対仏・伊戦争での敗戦の責任を問われたことを苦に、1860年に自ら命を絶った。この不幸な出来事を気にしてか、シュトラウス楽団は非常に人気の高かったこのポルカを、その後めったに演奏することはなかったという。
レハール:オペレッタ『メリー・ウィドー』より 「ときめく心に唇は黙し」
レハールの最高傑作『メリー・ウィドー』(1905年ウィーン初演)は、ベル・エポックのパリを舞台に、莫大な遺産を相続した陽気な未亡人ハンナと洒落者の大使館員ダニロのひと筋縄ではいかないラヴ・ロマンスを描いた作品。「ときめく心に唇は黙し」は、このオペレッタの終幕近くで歌われる、主題歌ともいうべき有名な愛の二重唱だ。本当は互いに相手を愛していながら、過去へのこだわりから素直になれず、さんざん意地の張り合いを続けてきたハンナとダニロのふたりが、甘美なワルツを踊りながら、ついに相手を愛していることを互いに打ち明け合う。「ヴァイオリンの囁きとともに、ワルツのステップで心が躍る。唇は黙していても、胸のときめきが『愛して欲しい!』と打ち明けている……」
オッフェンバック:オペレッタ『天国と地獄』より フレンチ・カンカン
オッフェンバック(1819~80)は、ドイツのケルンに生まれ、パリに出て時代の寵児となったオペレッタ作曲家。最後に作曲した傑作『ホフマン物語』は本格的なオペラだが、彼の作品のほとんどは愉快で痛快なオペレッタで、その代表作は1858年パリ初演の『地下(冥界)のオルフェ』だ。日本では浅草オペラ以来『天国と地獄』という題名で知られている。これは気高い夫婦愛を描いたグルック作曲のオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』(1762年ウィーン初演)を徹底的にパロディー化しながら、当時のフランスの政治や社会を痛烈に諷刺したもの。大詰めでは、天国(ギリシャ神話の神々の世界)と地獄(冥界の王が支配する死者の世界)が入り乱れてのてんやわんやの場面となり、フレンチ・カンカンの破廉恥な踊り(その音楽はどなたもご存じのはず!)で、オペレッタ気分は最高潮に達する。