サントリーホール オペラ・アカデミー 2021/2022シーズン レポート5(後編)
「サントリーホール オペラ・アカデミー コンサート」を終えて
ジュゼッペ・サッバティーニが来日して重ねられた12日間の集中レッスン。その模様は前編で伝えたとおりである。そしていよいよ、アカデミー生たちは晴れの場を迎えようとしていた。
ゲネプロからコンサート本番へ
さて、いよいよ7月10日18時からゲネプロが行われ、1日開けて本番を迎えた。以下にゲネプロと本番との比較も交えつつ、一人ひとりがブルーローズの舞台で示したパフォーマンスについて記したい。
ここまで描写してきたレッスンの模様からも、このコンサートで最初に歌う歌手がどれだけ緊張を強いられるか、おのずと想像されることだろう。事実、先頭を切って歌った潟美瞳のペルゴレージ「怒りんぼさん、私の怒りんぼさん Stizzoso, mio stizzoso」には、かなり力が入っていた。敏捷に歌っているのはいいとして、力が入るあまりポジションが下がり、喉で押してしまう。
しかし、曲の後半で次第に力が抜けてきた。サッバティーニはゲネプロ終了後、「本番で自分は客席の後ろに立ち、まずい点があれば指示を出すので、歌いながら視界の端に自分の姿を入れておくこと」と、受講生に伝えていた。私はホールの中央に座っており、後ろを向くと目立つので確認できなかったが、「力が入っている」という旨がうまく伝えられたのかもしれない。いずれにせよ、緊張して力が入ることを体感すること自体、大きな学びになったに違いない。
スカルラッティ「私は悩みでいっぱいで Son tutta duolo」を歌ったメゾ・ソプラノの岩石智華子は、息の支えのほか、つぶれがちな母音が課題だった。本番当日は、これまで後ろに行きがちだった声が前に向くとともに、支えが改善されたからだろう、以前よりも声がボリュームを増していた。
髙橋茉椰のパイジエッロ「私はもう心の中に感じない Nel cor più non mi sento」も、サッバティーニに再三指摘されていたボリューム不足に、改善のあとが明らかだった。支えをかなり意識したものと思われる。結果として、発音もより明瞭になった。石本高雅のドゥランテ「愛に満ちたおとめよ Vergin tutt’amor」は、これも緊張のせいだろう、練習のときよりもポジションが下がり気味ではあったが、音の運びはスムーズだった。
牧羽裕子はプリマヴェーラ・コースの受講生のなかでも、とりわけ楽器に恵まれた歌手だ。響きのスケールも質感も高い。それだけにポジションが後ろに行きがちなのが惜しい。だが、グルック「おぉ 私のやさしい熱情の O del mio dolce ardor」は、ゲネプロでは歌はやわらかさが増しており、本番も音域が下がるとポジションが後退する傾向は見られたものの、多くの音が以前より安定し、すぐれた声が活かされた。
ボノンチーノ「貴方を讃える栄光のために Per la gloria d’adorarvi」を歌ったソプラノの小宅慶子は、ボリュームがなく母音がつぶれ気味だという改善点はあるが、ゲネプロでも本番でも、狭かった喉の空間が広がり、音を息に乗せるすべが身につきつつあると感じられた。谷島晟のペルゴレージ「羊が牧草を食む間 Mentre l’erbetta pasce l’agnella」は課題だったヴァリエーションもメリハリをつけて歌われた。しかし、歌いながら喉の空間が次第に狭くなったと感じられた。緊張して力が入り、支えがゆるくなったからだろう。
伴野公三子の伝ペルゴレージ(パリゾッティ作曲の可能性が高い)「もしあなたが私を愛してSe tu m’ami」は、つぶれ気味だった「e」の発音が改善されていたが、ゲネプロでは喉が開ききっていなかった。しかし本番では、力が抜けてポジションの改善が顕著だった。伴野には質感がある潤いを帯びた声と高い音楽性が備わっているが、おそらく不器用なところがあるのだろう。サッバティーニの指摘はいつも厳しいが、それだけ期待の大きさが感じられる。実際、修正されたときの歌にはたしかな力がある。
頓所里樹のストラデッラ「主よ、憐れみくださいPietà, Signore!」は以前より支えが意識され、ゲネプロでも本番でも、不安定だった弱音が安定していた。一方、アクートはとくに本番で響かなかったが、響かせようと意識しすぎて、守りに入ったのだろうか。
前半の最後は東山桃子のヴィヴァルディ「私は蔑まされた妻 Sposa son disprezzata」だった。この曲は装飾をともなう長いフレーズがあり、息を続けるのが難しい。だが、支えを固めるとともに息漏れを防ぎ、息が続くようになると、ボリュームが増してメリハリも得られる。東山もゲネプロまではその方向で完成度を高めていたが、本番の難しさだろう。息が続かず、ボリュームにもメリハリにも欠けてしまった。
だが、力を出し切れなくても曲をしっかり構成し、高いレベルで哀感を伝えたのは東山の力である。緊張を克服できた歌手も、緊張して力を十分に出せなかった歌手も、得たものの大きさは変わらない。
克服された弱点と残された課題
休憩を挟んで後半は、谷島晟のジョルダーノ「いとしい女よ Caro mio ben」で始まった。隙のない歌で、ゲネプロでサッバティーニは「完璧だ!」とつぶやいていたが、本番でもソットヴォーチェが美しく、息もしっかり続いていた。潟美瞳もファゾーロ「望みを変えよ Cangia, cangia tue voglie」では、落ち着いて歌うことができた。ゲネプロでは「高音をもっとやわらかく!」という指示を受けていたが、それも解消されていた。支えが弱いのでボリュームに欠けるのが課題だが、響きは美しい。
伴野公三子のヴィヴァルディ「何か私には分からないものが Un certo non so che」は、もう少し喉が開くとよいのだが、全体にフレージングの安定度が増していた。東山桃子もヴィヴァルディ「忠実でいることの喜びと共に Coi piacer della mia fede」では落ち着きを取り戻し、力みがないぶん息も続いた。そうなると気持ちよく歌えるのだろう、この曲らしい軽快な美しさが装飾を交えてよく引き出された。言葉も数日前より明瞭になっている。
石本高雅はモーツァルト「手に一度口づけ Un baccio di mano」では、ゲネプロで「ポジションが低い」と指摘されていたが、本番では改善のあとが見られた。課題だった低音も以前よりよく響く。石本もあまり器用なタイプではないかもしれないが、美しい響きがあってポテンシャルは高いので、地道に磨いていけばどこかで大きく伸びるだろう。そう思わせる歌だった。
髙橋茉椰のモーツァルト「安らかな微笑みが Ridente la calma」は、ゲネプロで「旋律は音をしっかりつなげて!」と指示され、本番で改善された。この曲でも以前よりボリュームが獲得され、ガムを噛んでいるかのようなこもった響きも明瞭になりつつあった。
頓所里樹が歌ったモーツァルト「どうか詮索しないでください Per pietà, non ricercate」は、破綻なく歌われたが力強さに欠け、高音の弱さは解消されない。破綻させない方向に意識が行きすぎるあまり、支えという根幹がおろそかになるのだろう。頓所はまちがいなく高い音楽性に恵まれている。それを十分に開花させるためには、基本に立ち返っての地道な努力があるのみだろう。
また、3人のピアニストは総じてよく仕上がっていたのではないだろうか。
アドバンスト・コース受講生のさらなる成長への課題
続いてアドバンスト・コースの3人がオペラ・アリアを歌った。ピアノ伴奏はコーチング・ファカルティの古藤田みゆきが務めた。
岡莉々香は、1曲目の『フィガロの結婚』から「ついにその時がきたわ…さぁ、きて、遅れないで、あぁ、素晴らしい歓びよ Giunse alfin il momento ... Deh vieni non tardar」では喉が開いてポジションも安定し、やわらかく自然なスザンナを聴かせた。
石井基幾は最初に、ドニゼッティ『ランメルモールのルチア』から「我が祖先の墓よ…もうすぐ安らかに身を置く場所が与えられるだろう Tombe degli avi miei ... Fra poco a me ricovero」を歌った。ゲネプロでは、サッバティーニのレッスンが始まった当初にくらべるとだいぶ改善されたが、まだ少し喉で押していた。また音程のブレが気になる。楽譜にないが聴かせどころになっているカデンツァの高いB(変ロ)も、少しぶら下がり気味だった。
それが本番では喉が開いた自然な発声になり、持ち前の豊かな声が活かされた。音程も改善されていた。ただ、厳しいことをいえば、この時代のオペラに「泣き」は入れないでほしい。ポルタメントも過剰に聴こえる。また、絶望の淵にいるエドガルドの心情が聴こえてこない。端正に歌ってこそ映えるアリアである。恵まれた声と能力の持ち主であるだけに、あえて注文をつけておきたい。
岡が2曲目に歌った『愛の妙薬』の「受け取って、あなたは自由よ…私のひどい仕打ちは忘れて Prendi per me sei libero ... Il mio rigor dimentica」は、サッバティーニが来日した当初はポジションが安定せず、喉に力が入って息が続かず、曲の表情も硬く、これでコンサート本番に間に合うのかとハラハラさせられた。しかし、ゲネプロでは力が抜けて息もよく続き、本番もさらにやわらかさを増し、アディーナのあふれる思いが伝わってきた。まだまだ磨いていく必要はあるが、12日間に大きく伸びたことを評価したい。
萩野久美子が歌ったベッリーニ『夢遊病の女』の長大なアリア「おお! せめて一度だけでも…ああ! 信じられない…ああ! 私がどれほどの幸せに満ちているか Oh! se una volta sola ... Ah! non credea mirarti ... Ah! non giunge uman pensiero」は、夢遊病の状態で歌う前半の短調のカンタービレでは、萩野の抒情的な声がよく活かされ、アミーナの悲痛な心情が浮かび上がった。一方、正気に返って、めくるめくコロラトゥーラとともによろこびを歌う後半のカバレッタに対しては、ゲネプロでサッバティーニから注文が投げかけられた。「魂が入っていない!」「どうしてそんなに叫ぶんだ! コントロールしろ!」「呼吸ができていない!」「ポルタメントのしすぎでテンポが追いつかない!」「これは幸福のカバレッタなんだぞ!」。
本番では、カンタービレはよく磨かれ、カバレッタもリズムはよくなった。しかし、装飾歌唱にもっとなめらかさがほしい。ポテンシャルは高いのだ。叫ぶような歌唱を改善するために、支えを堅固にし、喉を開き、息に乗せて自然に声を出すという基本を、さらに盤石にしてもらいたい。
コンサートを締めくくったのは、石井が歌う『仮面舞踏会』のアリア「彼女は到着した頃だろう…永遠に貴方を失っても Forse la soglia attinse ... Ma se m'è forza perderti」だった。サッバティーニから厳しい指示を受けていたときにくらべ、ゲネプロではやわらかさが増し、本番もポジションを高く保って歌えていた。音程もゲネプロで不安定だったのが本番では改善された。最後の無伴奏のフレーズで外れてしまったのが惜しい。
アドバンスト・コースの受講生に対しては、少々厳しい筆致になったかもしれない。しかし、もう間もなく独り立ちする彼らの未来が輝いてほしい、という願いを込めてのことであるのを理解してもらえればと思う。おそらく、サッバティーニの思いも同じなのではないだろうか。
連日、アカデミーを見学した私の頭のなかでは、コンサートから1週間が経ったいまなお、イタリア古典歌曲の数々が、それを歌った一人ひとりの声とセットになって鳴り続け、少々困惑している。それはともかくとして、あらためて感じたのは、日本にいながらこれだけ濃密で理にかなったレッスンを受けられるアカデミー生たちが、いかに恵まれているかということである。あるいは、彼らがもっと早い時期からこうした指導を受けられていれば、さらに伸びる余地があったかもしれない。
コンサートが終わるとサッバティーニは、夏の間に発声や歌唱の基礎的な決まりごととしっかり向き合い、秋にレッスンが始まったとき、基礎についてのダメ出しを自分にさせないようにしてほしい、という旨を受講生たちに伝えた。
これだけ口酸っぱく言われれば、なにが基礎として大切で、自分になにが足りないか、それぞれが迷う余地もないだろう。それだけのレッスンが重ねられてきた。レッスンが再開したとき、受講生一人ひとりはどう成長しているだろうか。それをたしかめるのが、ますます楽しみである。