アーティスト・インタビュー

第50回サントリー音楽賞受賞記念コンサート

受賞者 高関 健(指揮)が語る

聞き手:片山杜秀(音楽評論家) 

東京會舘で行われた贈賞式にて(2019年7月2日)

日本の洋楽発展に最も顕著な功績のあった個人または団体に贈呈する「サントリー音楽賞」の記念すべき第50回(2018年度)は、指揮の高関健が選ばれた。
楽譜テクストを徹底して精査・吟味し、泰西名曲に安住せずしかも奇をてらうのではないプログラミングで、細部まで手を抜かずに仕上げる高関の音楽づくりは、「当たり前のようでいながら容易には成し得ない仕事」と音楽賞選考委員たちから強い支持を得たという。
8月12日、高関は常任指揮者を務める東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団との共演で受賞記念コンサートに臨む。公演を前に、高関が選曲意図と彼の緻密な音楽づくりの実際を語ってくれた。

東京會舘で行われた贈賞式にて(2019年7月2日)

──第50回サントリー音楽賞を受けていただいて、審査員の一人としてもお礼を申し上げますが、改めてそのおりのご感想のようなことを伺えれば。
突然、受賞のお話しをいただいて驚きましたし、非常に光栄なことだと思いました。私はサントリー音楽賞には関係無いまま一生を終わると思っていたんです。音楽界にセンセーショナルなことを持ち込んだとか、特別な企画力があるといったタイプの音楽家ではないですから。
受賞コンサートでは評価していただいたことを受けて、「自分はこういうことをやりたいんだ」という選曲にしようと、 ノーノの『2)進むべき道はない、だが進まねばならない…アンドレ・タルコフスキー』マーラーの交響曲第7番 の2曲を選びました。

ノーノ『進むべき道はない、だが進まねばならない』

──受賞記念コンサートについてうかがいます。まずノーノですけれども。
サントリーホールが1986年に開館した頃は、私のキャリアも始まったばかりでした。その時期の大事な演奏会の一つが1987年11月のサントリーホール国際作曲委嘱シリーズNo. 8「ルイジ・ノーノ」でした。武満徹さんの企画と監修ではじめられたシリーズで、ケージやクセナキスなどがオーケストラの新作を書く。今も続くシリーズですね。その8人目がノーノで、委嘱新作の『進むべき道はない、だが進まねばならない』の世界初演を受け持ったわけです。
この作品の演奏は難しい。オーケストラがホールの客席も使って、空間的いっぱいに配置される。そうやって広いところに散らばったオーケストラが、とても緻密かつ微妙にアンサンブルしなければならないのです。たいへん厳密な作品です。舞台中央には弦楽オーケストラがいて、そのほかに客席のほぼ左右前後対称の6カ所にもアンサンブルが配置されます。この6つのグループには1~2人ずつの打楽器奏者が含まれています。そしてたとえば舞台両側にいるボンゴ4人が微妙にずれて呼び交わす。距離が遠いと細かなアンサンブルはとても難しくなります。だからこそ指揮者が重要にもなりますが、指揮が見えづらいところにいるプレイヤーもどうしても出てくるわけで、とても難しいことになる。そうやって音がホールのあちこちから行ったり来たり合わさったり微妙にずれたりしているうちに、突然、複数の大太鼓がドーンと鳴ったりするのですが、この大太鼓も客席の前と後ろに離れている。作曲家の注文通りにするのはとても大変です。
リハーサル中は、ノーノさんが客席の真ん中に立ってずっと聴いていました。あちらの音が弱い、こちらが弱いと、注文はとても厳しかったです。彼のなかではっきり響きのイメージがある。現実をそこに近づけよう、完璧にしようという熱意が凄まじい。私は当時まだ始めたての指揮者でしたから、作曲家の意図を十全にくみ取れていたかどうか。ノーノさんには鍛えられました。武満さんもずっと立ち会ってくだいました。とてもよい経験でした。終演後は、作曲家から「良かったよ」って言っていただいた覚えがあります。

この作品は、先入観無しに聴いたほうがよいのではないかと思います。リズムやテンポも難しくは感じないでしょう。四方八方からいろんな響きが交錯して、しかもほぼ同じソの音が行ったり来たりして、時々、打楽器に中断されまた始まって、というような音楽なので、響きのなかに身を任せて、音が飛び回る様子を楽しんでいただければと思います。サントリーホールと私のかかわりのなかで外せないこの曲を改めて取り上げさせていただけることにとても感謝しています。

1987年11月28日世界初演時
左から 高関 健、ルイジ・ノーノ、武満 徹
ノーノによる同作品のスケッチ
「空間における音の移動パターン」

マーラーの交響曲第7番との出会い

──そしてメイン・プログラムになるのが、マーラーの交響曲第7番ですね。
マーラーの交響曲第7番は、学生時代に初めてLPで聴いておもしろいなと思ったんです。当時は、ようやくLPでステレオ録音のバーンスタイン指揮やクーベリック指揮の全集が出たぐらいで、マーラーの交響曲をいつでも好きな時に聴けるような状況ではなかった。中でも第7番はとてもマイナーで、LP録音も数えるほどしかなかったでしょう。私はクーベリックの全集で聴きまして、本郷のアカデミア・ミュージックに楽譜を買いに行ったんです。当時一番安かった黄色い表紙のオイレンブルク版を買おうしたら、当時の店主──アマチュアのヴィオラ弾きで新交響楽団(1956年に作曲家・指揮者の故芥川也寸志により創設されたアマチュア・オーケストラ)でも演奏していた有名な方です──が、この版はもう使われないから、新しく出た「全集版」(国際グスタフ・マーラー協会編纂エルヴィン・ラッツ校訂版)を買った方がいいと、言ってくれました。そのときにラッツ校訂ですでに第5番・6番・7番が出版されていて、値段もそんなに高くなかったので、まとめて3冊買ったんです。その新しい楽譜で読み始めると、録音とは違うんですよね。いろいろな版の楽譜があることを知ったきっかけでもありました。

桐朋学園大学を卒業してベルリンに留学した翌年に、とんでもないことが起きました。1979年3月のベルリン・フィルハーモニーの定期演奏会に、7番が小澤征爾さんの指揮で予定されていて、楽譜を用意して待ち構えていたのですが、残念ながら小澤さんは病気でキャンセルされたんです。それでがっかりしていたら、当時ベルリン・フィルのヴィオラ奏者だった土屋邦雄さんから、このキャンセルでヴィオラがひとり休暇をとってしまって1席空いているから、「君、弾く?」と言われたんです。そりゃ弾きますよね。こうしてベルリン・フィルで代役の指揮者が来て曲目は変えずにマーラーの7番を演奏して、そこにエキストラとして参加してしまったのですが、当時のベルリン・フィルのメンバーは7番を演奏したことがなかった。かなり久々のことだったのでしょう。それで、メンバーが曲について私に尋ねてきたりして。そういうことを経験して、なんとなく7番については自分がきちんと知っていなくてはと思うようになり、マーラーについて勉強を続け、第7番は特別な曲になりました。
私が初めて7番を指揮したのは1993年の名古屋フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会です。その後は、群馬交響楽団、京都市交響楽団、新交響楽団でやって、札幌交響楽団でやりました。札幌交響楽団との演奏は、2011年3月18・19日、東日本大震災の1週間後でした。この後に、ラインホルト・クビークによる新校訂版(試刷)ができて、ラッツ版から楽譜を変えました。その後、藝大フィルハーモニア管弦楽団と、おととしには群響で演奏しています。

提供:群馬交響楽団
群馬交響楽団とのマーラーの交響曲第7番
2019年5月25日、群馬音楽センター
提供:群馬交響楽団

「新マーラー全集」校訂に携わって

──このころから「新マーラー全集」に関わられることになったわけですね。
マーラーの楽譜にはいくつもの版がありますよね。現在、国際マーラー協会からラインホルト・クビークらが批判校訂した「新全集」が刊行中で、交響曲第2番、4番、5番、6番、7番は出版されています。あと、第1番の初期稿、交響詩「巨人」ですね。次は第1番が出るそうです。
実はこの「新全集」のお手伝いをしました。その最初は第2番でした。2番を演奏することになった時に、出版間近だった「新全集」版を使わせてくれないかと出版社にお願いしたら、なんと許可が出た。それで、出版前の「試し刷り版」を使わせていただけることになったのですが、実際に楽譜をみてみたらおかしな所があり、校訂者に手紙で直訴してみたんです。例えば、全体がフォルテピアノ(fp)のところなのにチューバのパートだけがフォルテ(f)と書いてある。ということは、そこでチューバだけが「ボン」って音が残る。「これはないよ」と書き送ったら最初は「そんなことはない」と返事がきました。第2番は、マーラー研究で有名なギルバート・キャプランが自筆譜(ファクシミリ)を出版していて、それを見直したらフォルテが書いてある下の大太鼓のパートにバチの指定が書いてあって、その言葉とフォルテがかち合っていて、その横には「p(ピアノ)」の文字がやはりあったんですね。文字が重なっていて「p」が見落とされていたというわけです。そのことを伝えたら、2番のもう一人の校訂者でもあったキャプランから「よく見つけた」と返事がきて、急遽、校訂のメンバーに入れられました。2番のあとに第7番の校訂になり、7番の校訂者のクビークさんに、試し刷り版のなかで違うところを伝えたら、そこから何か所か採用してくれました。それで7番と2番、4番に楽譜には私の名前も校訂協力者として載っています。

マーラー:交響曲第7番新全集版校訂者としてKen Takasekiの名がPierre Boulez と並び記載されている

自身で校訂した楽譜を作る

クビークさんとは、演奏の仕方についてもいろいろ議論をさせてもらいました。彼からは、自分が思った通りの楽譜を作って演奏した方がいいよと言われました。
マーラーの楽譜を正確に演奏することは、マーラーを正確に演奏することではないのです。マーラーは、楽譜に書きこみたいことがあまりに多すぎて、全部書ききれていない作曲家のひとりです。途中まで書いてあるのだけれど、あとは「以下同文」ということで書かなかったり、書き落としがあったりしています。クビークさんは、「楽譜を校訂して出すことと演奏することとは意味合いは違うから、そこは自分で全部判断して演奏しなさい」と言ってくださいました。それで自分の楽譜を作り、今回もその楽譜で演奏します。

──高関版の総譜とパート譜があるということですね。
ええ。どのように楽譜を作っていくかというと、いわゆるマーラー自身の作曲の手順を追っかけるために、わざと初期の楽譜を手に入れるわけです。そしてもっと前の楽譜や、その後の、幾つかある校訂譜の情報を、年代順に色分けして書いていく。私が元の譜面として使っているのは2回目の版ですけれど、この譜面より前の最初の版の情報を緑色で書き入れして、「全集」版の情報は「青」で書き入れて、クビークさんと新たに校訂した「新全集」で新しく入ったものは「紫色」で書き込んでいます。それから「赤」は私の判断です。この別の「青色」は指揮者のメンゲルベルクのスコアではこうなっているという書き込みです。こういう風に書き入れていくと、例えば、書いてある付点音符よりも実際の演奏ではもっと間をあけるべきだとか、8分音符で書いてあっても16分音符に音を詰めるべきところだとか、だいたいの演奏の仕方が読みこめてくるんです。この私のヴァージョンのパート譜を京響のライブラリアンの方が作ってくれまして。フレーズの作りもなるべく書き込んで。その方が練習で奏者に話すよりも楽なので。ほかのマーラーの交響曲でも同じように私の譜面を作っています。ベートーヴェンもほとんどこうやっていますし、モーツァルトの『ジュピター』も作っています。オーケストラでよく演奏するものは作っておいたほうが、練習する時間が短くなりますから。先日、シベリウスの交響曲第2番をやりましたが、この時も楽譜は作ってありました。
自分の楽譜を作る指揮者はこれまでにもいます。レナード・バーンスタインやカール・ベームも自分のパート譜を持っていました。自分で楽譜を作るということもベルリン留学中に学んだことです。

マーラー:交響曲第7番 第1楽章冒頭。高関版の楽譜を作成するために、別版の異なる箇所を色分けしながら書き込んでいく。初版は緑、全集版は青、新全集版は紫で書かれ、赤は高関自身の解釈による書き込み。

交響曲第7番の魅力

──第7番の魅力とはなんでしょうか。
第7番は、バロックに帰ろうという発想がある曲です。最初の「序奏」の部分がバッハの『管弦楽組曲第2番』の「フランス風序曲」と同じ付点のリズムになっています。この付点リズムの取り方は、今日の古楽演奏の考え方などいろいろなことが出てきますね。それでクビークさんにどこまで変えてよいかと相談したら、全部詰めて演奏すればいい、と言ってくれました。楽譜を編集して出版する彼の側からいえば、短い音符に変えることはできませんよね。作曲家が書いたことしか書けないから。その代わり、演奏のしかたについてのページにはこのことは記載されているはずです。
第7番は第6番に物凄く入れ込んで作曲したその反作用のようなかんじでできた作品ですね。ディヴェルティメント的な曲がマーラーのなかに浮かんでしまったのでしょう。「夜の歌」という名前の由縁となった「夜曲」が第2、4楽章にありますが、そこからマーラーは書き始めています。ソナタ形式で厳密に書こうということから外れています。第1楽章はちゃんと書いていますが、第5楽章はロンド、しかもどこにいくのか分からないようなロンドです。でもオーケストレーションは抜群に面白いですね。後に現れるシェーンベルク、ヴェ―ベルンを彷彿とさせるようなオーケストレーションだし、シマノフスキとかツェムリンスキーのオーケストレーションの源泉になったといえます。突然、鐘が鳴ったり、カウベルが出てきたりとか、はっちゃけていますね。

サントリーホールにつなげてくれたカラヤンとの出会い

──ベルリン留学中はヘルベルト・フォン・カラヤンのアシスタントを務められました。
カラヤンという人に出会ってしまった幸運は、なんとも言いようがありません。カラヤン指揮者コンクールジャパンの優勝がめぐり合わせです。ふってわいたようなコンクールでした。1977年にコンクールが開催されたのですが、コンクールがあると分かったのは、その年の8月です。桐朋学園オーケストラの合宿が志賀高原であり、指揮科だけ残って3日間合宿を続けたのですがほとんど飲み会で、そこで森正先生が「君たちに特別な話がある。カラヤンがコンクールをやってくれるよ」と言われたんです。指揮科の皆は騒然となって、予選では私を含め3名が選ばれました。
カラヤンは、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の東京公演初日のゲネプロの時間を削って審査してくれました。1等賞をいただいて、翌日からベルリン・フィルの練習にきていいよ、と言われたんです。だけど練習するのは東京公演で演奏するベートーヴェンではない、マーラーの5番だからね、と。その年の12月31日のプログラムを練習するというんです。それで、マーラー全集の楽譜を持って行きました。演奏のあまりのすばらしさにびっくりしました。人生観がまったく変わったし、カラヤンの凄さも瞬時に分かりました。カラヤンとはめぐり合わせとしかいえないですね。そういったことを若い人たちに伝えなければいけないと思って、大学でも話すようにしています。
そうそう、サントリーホールができるという話をきいたのはベルリンでした。ある日、佐治敬三初代館長がベルリンのカラヤンのところにご相談にいらっしゃったんです。カラヤンはヴィンヤード形式がいいよ、とおっしゃったと。その時、私も佐治さんをお見受けしていました。カラヤンと佐治さんがその話をしているとき、私はそばにいたんです。そのころからサントリーホールとは特別なつながりがあったと思っています。カラヤンと縁の深いサントリーホールで記念すべきコンサートをやらせてもらえることを、とても幸せに思っています。

ⒸSiegfried Lauterwasser
ベルリン・フィル オーケストラアカデミーでカラヤン氏のアシスタントを務めた
  • 高関健(指揮)メッセージ/第50回サントリー音楽賞受賞記念コンサート(8/12)/ノーノ:『2)進むべき道はない、だが進まねばならない…アンドレ・タルコフスキー』、マーラー:交響曲第7番「夜の歌」