サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン 2022
フォルテピアノ・カレイドスコープ Ⅰ
小川加恵(フォルテピアノ) & 藤倉 大(作曲)が語る
ソロ・フォルテピアノのための委嘱新曲 『Past Beginnings』
現代のモダンピアノとは異なる音色を持つ、フォルテピアノの煌びやかな響きをお届けする「フォルテピアノ・カレイドスコープ」。6月12日公演に登場するデンハーグピアノ五重奏団のプログラムは、19世紀前半までに書かれたピアノ五重奏の作品、ベートーヴェンのピアノ協奏曲(室内楽版)のほか、藤倉大によるソロ・フォルテピアノのための新作委嘱作品『Past Beginnings』の世界初演にも注目が集まります。
フォルテピアノ奏者・小川加恵が今回のプログラムに藤倉大の作品を入れようとした意図や、フォルテピアノのための作品を書くのは初めてだという作曲家・藤倉大が『Past Beginnings』を通じて表現する楽器の魅力について、お二人に語っていただきました。
小川 私が今回、藤倉さんにフォルテピアノのためのソロ曲を書いてほしいとお願いしたのは、かつてベートーヴェンが当時最新の技術を駆使して作られた様々なタイプのフォルテピアノを目の当たりにして次々に新しい音楽表現を生み出していったように、現代に生きる作曲家の視点から捉えられるフォルテピアノとその音楽表現の新しい可能性への挑戦を、私自身は演奏する立場からご一緒したいと思ったからです。
藤倉 これまでピリオド楽器のための作品は書いたことがなかったんですが、ちょうど1年くらい前にナチュラルホルン奏者の方から作品の依頼を受け、そのすぐ後に海外のオーケストラからトラヴェルソ協奏曲を書いてほしいと依頼があって、そうしたら次はチェンバロ奏者の方から作品の依頼があって。まるでこの1年、ピリオド楽器のための作品を書く期間とでも定められているような時期が続いていたんです。そんな時に小川さんからフォルテピアノのためのソロ作品の依頼をもらって、これはもう書く運命にあると思いましたね。(笑)
でも実は、今回依頼を受ける数年前から個人的にフォルテピアノにはとても興味を持っていて、ポーランドにあるショパン・インスティチュート(フレデリック・ショパン研究所)まで行って楽器に触らせてもらったりもしていました。
『Past Beginnings』の制作にあたって、小川さんとは何度もセッションをさせてもらったんですが、フォルテピアノを実際に弾いてもらってまず驚いたのが、その音色の多彩さでしたね。低音と高音では同じ一台の楽器なのかと思うくらい音色が違いますし、演奏の仕方によってもまるで異なる表情を見せてくれます。また音の減衰の仕方を聴くと、ベートーヴェンが書いた旋律のフレーズに自然と一致していて、いかに彼が楽器の息づかいに寄り添って作品を書いていたかが分かります。このフォルテピアノ独特の音の減衰の速さを活かして、色々な表情を引き出せるような作品にしたいなと思いましたね。
あるときのセッションで小川さんはベートーヴェンの「月光ソナタ」の第1楽章を弾いてくれたんですけど、楽章中、常にペダルを使い続けても不快になるような音の混ざり方は一切しないし、むしろそれが幻想的な曲の雰囲気を実に効果的に表現していて、こういうところにも音の減衰の速さを活かした表現方法が使われているんだなと納得しましたね。
それに衝撃的だったのが、モデラートペダル(弦とハンマーの間に布を差し入れて音色を変化させる装置)。このペダルを使用したときの劇的な音色の変化には、大変驚きました。小川さんが仰っていたように、現代のピアノが音量の拡大という視点において発展していったのに対し、この時代のピアノがいかに音色の多彩さというところに焦点をあてて改良を重ねていっていたのかが分かりますね。
小川 ベートーヴェンは「月光ソナタ」の第1楽章冒頭に“楽章中、常にピアニッシモで、ソルディーノなしで”演奏するように、と指示を書いています。ソルディーノとは弱音器という意味ですが、当時のベートーヴェンはソルディーノを、弦の振動をとめる装置のダンパーという意味で使っていました。
つまり、「楽章中、ダンパーを使用せずに」演奏することを求めていたことになりますね。この指示にしたがって演奏してみると、幾重にも音のベールが重なり合い、夜霧に浮かぶ月明かりが美しく辺りを照らす幻想的な風景が目の前に広がるような感じがします。
現代のピアノで同じことをすると不協和音に満ちてしまって、同様の効果が得られないので、ベートーヴェンがいかに所有していた楽器の個々の特性を熟知し、その音色や機能を最大限に自身の音楽表現に反映させようとしていたかが分かりますね。
藤倉 僕のこれまでのピアノ作品、といっても「現代のピアノ」のための作品ではペダルは敢えて極力使わないように作曲してきたんです。でも今回、フォルテピアノのペダル機構とそれによって得られる音色変化の面白さに惹かれて、僕の作品としては初めて曲中を通して常にペダルを使用し、ペダルを使用することでしか得られない多彩な音色変化に焦点をあてて作りました。
小川 藤倉さんから作曲途中の作品の一部が送られてくるたびに、18〜19世紀の演奏法では演奏したことがないような新しい奏法や、ペダルの使用指示が書かれていて、20年以上フォルテピアノを演奏してきてこれまで染み付いてきた頭と身体の回路を一回一回壊さないといけないほど斬新で刺激的なセッションとなりましたね。(笑)
藤倉・小川 この作品名を一緒に相談して、『Past Beginnings』というタイトルにしました。これにはフォルテピアノという過去の遺産を、遺産のままで終わらせるのではなく、現代を生きる作曲家と演奏家が21世紀に過去の遺産をどう活かし、継承していくか――古くに作られた楽器が新しい時代の着想を得て、再び息を吹き返し、鼓動を始める――そんな可能性を感じて頂ける作品になれば、という思いがあります。サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン(CMG)で迎える世界初演をきっかけに、今を生きる世界中の多くの人々にフォルテピアノの新しい魅力を伝えられる作品となることを願っています。
使用楽器: A. シュヴァルトリンク(1835年製)
1835年にプラハで製作され、ピアノ作りの中心であったウィーンの伝統的な軽やかさと柔らかな東欧の薫りも感じられる。
この頃から新しい機構として今日のグランドピアノと同様に底板が張られないようになり、響きにいっそう拡がりが生まれた。
6オクターヴ半の音域を持ち、最低音から5鍵は鉄線の上に真鍮線を巻いて質量を大きくし、より強い張力で、重厚な低音を得ようとした。
鍵盤のナチュラルキーの表面には真珠層を持つ貝が張られ、シャープキーには金箔が下地に張られ、その上にべっ甲がかぶせられている。