サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン(CMG)の名物企画、ベートーヴェン・サイクル。
このベートーヴェン弦楽四重奏曲全曲演奏会に、CMGを2011年に開始以来、8つの弦楽四重奏団が取り組んできました。CMG10周年となる記念すべき2021年は、デビュー25周年を迎えるエルサレム弦楽四重奏団が登場します。
インタビューでは、数年をかけてベートーヴェン・サイクルを準備してきた同団のベートーヴェンにかける思いから、彼らの演奏観、コロナ禍での音楽の意味、これまでの日本公演の思い出にいたるまで、ヴィオラ奏者のオリ・カムが彼らの演奏のような誠実さとあたたかな情熱をもって語ってくれました。
ベートーヴェン・サイクルを通じて音楽の発展の道のりを追体験する
――チェンバーミュージック・ガーデンの「ベートーヴェン・サイクル」の曲目構成では、四重奏団それぞれの個性が表れます。今回の5公演にわたる曲目構成の狙いについてお話しください。
サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデンの伝統となっている「ベートーヴェン・サイクル」に出演できることをたいへんに嬉しく思っております。
どのベートーヴェンの弦楽四重奏曲もこれまでに演奏してきていますが、サイクル(全曲連続演奏会)としては2020年まで開いたことはありませんでした。新型コロナウイルスの影響で連続演奏会企画の多くは残念ながら中止となってしまいましたが、その分、サントリーホールで6月に再開できることを何よりも楽しみにしております。
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲のどれもが素晴らしいということは言うまでもありませんが、作品全曲として特筆すべきは、ベートーヴェンの音楽語法の進化を辿れるということでしょう。ベートーヴェンは、彼の初期の弦楽四重奏曲から後期の弦楽四重奏曲までの28年という短い期間で、クラシック音楽に大きな発展をもたらしました。これはほとんどの作曲家がなし得なかったことです。
全曲を通して聴いていただければ、この比類ない音楽の発展の道のりを追体験することができますが、さらに私たちは、1公演ごとにベートーヴェンの歩みを表現したいと考えました。ですので、各回のプログラムで初期、中期、後期の弦楽四重奏曲を演奏します。こうすることで、より生き生きとした音楽語法の変遷を感じていただけると思います。
――エルサレム弦楽四重奏団にとってベートーヴェンとは。また、彼が残した弦楽四重奏曲の魅力とは?
数少ない偉大な作曲家の中でも、ベートーヴェンの存在は際立っています。ベートーヴェンは彼以前の音楽を集大成し、そしてそれをさらに大きく飛躍させました。同様のことができたのは、他には恐らくバッハとワーグナーくらいでしょう。作品18(弦楽四重奏曲第1~6番)にはハイドン、モーツァルト、さらにはバッハの影響も聴き取れますが、作品18‐6(第6番)の最終楽章では、その冒頭でロマン主義と半音階主義に向けた大きな一歩が感じられます。この進展によりもたらされた音楽が、20世紀に至るまで音楽史の主流となっていくのです。
ベートーヴェンの音楽にある革新性は、彼を育んだ伝統にも深く根差しています。ですから、聴き手にとって分かりやすい音楽でありながら、なおかつ感情や美意識、さらに知性にも強く訴えかけてきます。だからこそ、この素晴らしい傑作の数々を何度も聴き返し、そのたびに新たな発見を見い出すのです。
――ベートーヴェンの弦楽四重奏のなかで好きな曲は?
これはとても難しい質問ですね。どの曲も、演奏している間は一番のお気に入りになります。たとえばエルサレムにとって作品59‐3(第9番「ラズモフスキー第3番」)は、これまで演奏してきた作品のなかでもとりわけ思い出深い作品ですし、作品74(第10番「ハープ」)のような比較的最近弾き始めた曲にも強い想い入れがあります。
私個人としては、作品18‐1(第1番)、作品59‐1(第7番「ラズモフスキー第1番」)および作品59‐2(第8番「ラズモフスキー第2番」)の伸びやかな緩徐楽章が好きです。もちろん「カヴァティーナ」(第13番 第5楽章)は、私が知るなかで最も感動的な音楽です。
感情を込めつつも奇をてらわない演奏が作品の本質を伝える
――エルサレムの演奏を初めて聴く方、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を初めて聴く方に向けて伝えたいこととは? 今回の「ベートーヴェン・サイクル」がどのようなコンサートになるのかご紹介ください。
私たちは幸運にも、他の素晴らしい弦楽四重奏団の演奏を研究することができました。特にアマデウス弦楽四重奏団、アルバン・ベルク四重奏団、グァルネリ弦楽四重奏団のような弦楽四重奏団の解釈を深く尊重しています。私たちは、この素晴らしい名曲の数々の演奏の系譜の一部だと捉えています。作品を読み変えるといった、これまでにはないようなアプローチから演奏しようとは思いません。それでも私たち独自性が音楽にもたらされていると思っています。
なにより重要なことは、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲に対する私たちの情熱を、聴衆のみなさまと分かち合いたいということです。私たちが一番大切にしていることは、音楽を輝かせることです。感情を込めつつも、奇をてらわない演奏こそが、作品の本質をみなさまに体感していただけることだと思っています。
ベートーヴェンの弦楽四重奏全曲は、人類が生み出した最も輝かしい創造物のひとつです。クラシック音楽の知識や経験がなくとも、誰も異論はないでしょう。モネやゴッホが偉大だと認識されることと同じです。
今回はすべてベートーヴェンの曲になりますが、変化に富んだプログラム構成にしたつもりです。意表を突くことや変化することの巧みさにおいて、ベートーヴェンの右に出る者はいません。今回の一連の公演を聴いていただければ、それを感じ取っていただけると思います。
――「ベートーヴェン・サイクル」に向けたエルサレム弦楽四重奏団のアプローチについて、また「サイクル」後の活動の展望についてお話しください。
エルサレム弦楽四重奏団では、全曲演奏をレパートリーに加える際、他の四重奏団とは少し異なる方法でアプローチしていきます。サイクルとしてまとめて演奏する前に、まず各曲を個別に通常の演奏会のなかで取り上げます。その後、これをシリーズにして年に1、2回演奏します。ショスタコーヴィチやバルトークの全曲演奏の際も同様にアプローチしました。
この先数年にわたってベートーヴェン・サイクルを行う予定がありますが、私たちは、音楽家人生を全うするまでずっとベートーヴェン・サイクルを続けたいと思っています。実際のところ、たとえ人生を3回送ったとしても、すべてを理解し尽くせるとは思えません。むしろ、理解しようと探求しつづけるプロセスこそが、最も大きなやりがいなのかもしれません。
コロナ禍で見いだされたコンサートの意義と日本ツアーへの想い
――新型コロナウイルスの影響で生活様式や音楽の楽しみ方が多様化するなかで、生演奏を味わうコンサートの魅力についてどのように捉えていますか?
新型コロナウイルスの大流行は、ライブ・コンサートに代わるものは現在もこの先も決してない、ということを証明したと思います。人々がともに座り、生で音楽を体験するとき、魔法が起こります。世の中に安全が回復されれば、人々はこれを求めてコンサートホールに大急ぎに戻ることになるでしょう。これだけ長い間、自粛を続けているのですからなおさらです。演奏家が音楽を奏で、聴衆が耳を澄ますとき、その場にいる全員に一体感が生まれます。コロナ禍で最も失われているのはそうした体験です。
――これまでの日本公演で忘れがたい思い出はありますか?
エルサレム弦楽四重奏団では2004年から数回訪日しています。日本での演奏で特に印象深いことは、聴衆の方たちのすさまじいまでの集中力と静けさです。私たちはふだんから、咳払いや座席で落ち着きなく動く人、おしゃべりをする人など、演奏中の音や動きに慣れていますが、日本で初めて演奏したときは、観客の反応をどのように読み取ればいいか分かりませんでした。けれども演奏が終わると、会場は大きな拍手に包まれ、コンサートの後やツアーの先々で素晴らしい方々に出会いました。日本は海外公演先として最も楽しい場所のひとつです。6月の公演を何よりも楽しみにしています。
個人的にも、日本への渡航はとても楽しみです。初めて日本を訪れたのは10歳の時でした。イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団のヴァイオリニストだった母が、レナード・バーンスタインと共に日本公演をした際に同行しました。3週間にわたり日本各地を巡りましたが、それ以来、何度も日本を訪れています。訪日するたびに、日本と日本の人たちのことがどんどん好きになっていきます。ですから、6月にエルサレム弦楽四重奏団のメンバーと共に来日できるのは特別なことで、心から楽しみにしています。
――最後に、お客様に向けてメッセージをお願いします。
今回、東京でベートーヴェン・サイクルを披露できることをたいへん嬉しく思っております。西洋音楽史に革新的な発展をもたらした名曲の数々をまとめて演奏でることにワクワクしています。連続演奏会というかたちで全作品を通して聴いていだけるとみなさんの作曲家への思いがより深まることを、私たちはこれまで経験してきました。象徴的な作曲家としてだけでなく、ひとりの人間として感じるようになるのです。ベートーヴェン・サイクルは、いわば、人類史上最も感動的な人物のひとりとであるベートーヴェンの生涯を音楽で辿る伝記といえるでしょう。