サントリーホール サマーフェスティバル 2020
ザ・プロデューサー・シリーズ
一柳 慧がひらく ~2020 東京アヴァンギャルド宣言~
6つの委嘱新作 ─ アヴァンギャルドの行方 ─
今年のサマーフェスティバルは、若手~中堅の作曲家4人+1人に新作を委嘱するという、おそらくはこの催しが始まって以来の斬新な企画。一柳慧プロデューサーによって選ばれた作曲家たちは、なるほど、相当に作風の異なる人々だ。しかも20代、30代、40代、50代とまんべんなく幅広い年代に渡っており、男女比もほぼ半々。
現時点では、いずれもまだスコアのみしか存在しない楽曲ばかりではあるが、以下、5つの委嘱作品と、そして一柳自身の新作の魅力について素描を試みたい。これらの楽曲は、今回のテーマ「2020東京アヴァンギャルド宣言」に対する、それぞれの回答ということになろう。
森 円花(1994~ )は、今回もっとも若い作曲家。桐朋学園大学に在学中から、『音のアトリウム』シリーズを始めとする作品を次々に発表し、内外の一線の作曲家たちにアドバイスを受けながら、驚くべきスピードで成長を遂げつつある存在である。
今回の新作『ヤーヌス』は、ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲。タイトルは二つの顔が後頭部で繋がれた、ギリシャの二頭神を示しているわけだが、実際、作品の中では繊細な抒情と、そして暴力的といってもよい強烈な持続がくっきりとした対比を形作っている。
曲はまず、チェロとヴァイオリンの独奏が神秘的なモティーフを提出して始まる。この素材がやがてハーモニクスの倍音に溶けてゆくと、ガリガリとした音による攻撃的な音型があらわれ、無窮動的な突進へ。このあたりは相当にアグレッシヴな音楽だが、「合いの手」を入れるオーケストラ部のテクスチュアに細かいヴァリエーションがつけられているあたりが作曲者の持ち味。強烈な下行グリッサンドの嵐や、豊かなカンタービレなど、次々に新しい要素が導入される中、とりわけ注目すべきは後半における、2人の独奏者のユニゾンと、オーケストラのソロのユニゾンからなる、対位法的・多層的な音の構築部分だろう。最後には冒頭部の音型が回帰して、ゆるやかに全体を閉じる。
山根明季子(1982~ )の活動に接する若い作曲家の多くは、なるほど現代音楽とはこれほど自由かつ大胆でよいのだと、改めて気づかされるはずだ。もちろん本来、「現代音楽」とはそうした自由の謂いに他ならないのだが、しかし教育機関や作曲賞といったアカデミズムが、いつの間にか目に見えない殻となって音楽を覆っていたことを、彼女の存在は鮮やかに可視化する。その意味で山根は、2000年代の日本の作曲界にもっとも大きな影響を与えたひとりといえよう。
実際、彼女の近年のスコアを一目見れば、事態は明らかだろう。特に奇抜な趣向が凝らされているわけではないのに、ぱっと見た時の風景がおよそ誰の楽譜にも似ていない。これは、さりげなくも凄いことだ。
新作『アーケード』は、ゲームセンターの風景をシュールに切り取った音楽。まずは弦楽器による、奇妙な味わいを持つゆったりとした上下行が提示されるが、この動きは、何らかの形で曲尾まで一貫して保持され、全体の響きの土台を作る(アイヴズの『宵闇のセントラルパーク』のように)。ドラムセットが導入されると、いよいよ探検の開始。次々にあらわれては消えてゆくのは、かつてゲームセンターで耳にしたような、ファンファーレ風の和音や、素早い上行音階といった「チープ」な楽想の数々だ。エレクトロニクスのパートを含めて、それらの素材はいずれも気楽で陽気な性格を持っているのだ。が、しかし時として悪意を感じさせるようにけたたましく、時としてのっぺりと無機的で不気味な様相を呈する(実際、この曲の楽譜にはほとんどスラーがない)。これらは悪夢のように浮かんでは消え、重なり合って錯綜し……。
山本和智(1975~ )は、2009年度の武満徹作曲賞で2位を得て、突然に我々の眼の前にあらわれた。その後は邦楽器を用いた作品、エレクトロニクスを用いた作品などを次々に発表しているが、近年は「特殊音楽祭」なる奇怪なフェスティバルを主宰するなど、いまや独力で東京の現代音楽シーンのひとつの核を築きつつある。
新作『浮かびの二重螺旋木柱列』は、巨大な連作シリーズのひとつを成す作品。彼の音楽には常にはっきりとしたアイディアがあるが、今回はなによりも「2台のマリンバ」と「ガムランアンサンブル」を用いる点に特徴があろう。マリンバはともかく、独自の調律と強烈な反復構造を持ったガムランをオーケストラと調和させるのは困難だが、さてどうするか。
曲は、両翼配置のオーケストラ編成のそれぞれ正面に置かれたマリンバが、全体を貫く半音階的な主題をゆるやかに交替させて始まる。この動きが増幅されると、ガムランが登場。実はこの部分に典型的なように、マリンバ2台は楽曲内をぐるぐると自在に回遊しながら、「ガムラン」と「オーケストラ」という全く異なった両極を繋ぎ合わせる役割を担っている。西洋と非西洋の狭間に位置するマリンバという楽器の特性を生かした、巧みな構想だ。また、マリンバ2台が交互に音を埋めてゆくホケトゥス的な部分や、弦楽器がポルタメントでたゆたう上での木管群の増殖など、音響効果も多彩。終盤ではマリンバ2台の長いカデンツァがあらわれ、そして最後はついに(!)ガムランとオーケストラ部が融合を果たすことになる。
川島素晴(1972~ )はデビュー以来、斬新な構想の新作を発表するのみならず、自らのプロジェクトにおいて海外の注目すべき作曲家を次々に紹介し、日本の現代音楽界を活性化させてきた「台風の目」である。作曲家にしてプロデューサー、演奏家にして批評家といういくつもの役割を横断する点にこそ、川島の稀有な才能があろう。
さて、『管弦楽のためのスタディ』は、他の作曲家の委嘱新作とは、少々異なった経緯を持っている。もともとは2014年の「作曲家の個展」で初演されるはずだったものの、諸般の事情によってお蔵入りになっていた作品なのだ。しかし、まさに一柳プロデューサーの「慧眼」によって、この秘曲はようやく、日の目を見ることになったわけだ。
第1楽章「illuminance」では、20種類の光の様態がオーケストラに置換される。メシアン風の「煌めく鳥」に始まり、さまざまな和音が楽器グループごとに交替する「乱反射」が、f f による「閃光」に変化したかと思えば、下行ポルタメントによる「流星群」があらわれる、といった具合。カップミュートをつけたトロンボーンがうねうね揺れる「オーロラ」や息音とクラスターによる「白夜」、『ツァラトゥストラ』を思わせる「曙光」、ニョロニョロとした音階が重なり合う「魚群」など、次々に才気が爆発する様子を聴き手は耳にすることになるだろう。一通りの「光」が示されたあと、曲はすべての要素を早回しのように短縮して繰り返し、立体的な造形の中でコーダに至る。第2楽章「juvenile」は、全音階的な素材による、一見するとたわいない音楽。しかし、遊戯のように変化するテンポ表記の面白さに加えて、楽譜に細かく記された指揮者の挙動が… いや、これ以上は見てのお楽しみにしておこう。
杉山洋一(1969~ )は、二度発見された作曲家である。20代の頃にグループ「冬の劇場」の演奏会で新進作曲家としてデビュー。その後は日本を離れてイタリアにわたり、世界の最前線で作曲と指揮をこなしていたが、近年はいわば「逆輸入」といった形で国内での活動も増え、瞬く間に日本の音楽界の最重要人物のひとりとなった。
近年の杉山作品は、何らかの形で社会との接点を求めるものが多いが、今回の新作『自画像』もそのひとつ。かつてシュトックハウゼンは『ヒュムネン』で、様々な国歌をコラージュ風に用いたが、ここではそれに倣って世界史における、さまざまな紛争・戦争が「国歌」の連続という形で示される。しかも作曲者はここで、侵略された側に立つがゆえに、曲は同時に、世界史におけるマイノリティの軌跡といった様相をも呈することになった。冒頭に奏されるのは、バロック時代のスペインの作曲家フアン・カバニーリェスのオルガン曲『皇帝の戦争』。しかし、やがてこの旋律は不穏な響きの中に埋没していき、ビアフラの『日出ずる国』が響きだすと(考えてみれば、1967年に始まったビアフラ内戦の悲惨は杉山の師である三善晃の合唱曲『オデコのこいつ』の主題でもあった)、ヨルダン、ローデシア(「第九」の旋律!)、北イエメン、ナミビア、エリトリア、バングラデシュといった具合に、国歌が紛争の年代順に― 2019年のジャンムー・カシミールに至るまで ―年による濃淡をはらみながら、次々に導入されてゆく。
もちろんこれらの国歌を全て知っている人などいないだろうが(仮に知っていても聴きとれない部分が多いはずだ)、それでもこの旋律の連鎖は何がしかの重みをもって我々に伝わるだろう。オーケストラという媒体を最大限に生かした労作であると同時に、聴覚による歴史ドキュメントでもある、豊かなたくらみに満ちた音楽だ。
一柳 慧(1933~ )の近年の活動から強く感じられるのは、「自由」と「自在」の共存である。「自由」という語が他者の束縛から逃れている状態を指すのに対して、「自在」は自ら思うままにふるまうことのできる様態を指す。まさに一柳の活動は今や、あらゆる束縛を逃れながら、同時にこれまで培ってきた技術を駆使して、思うままにふるまっているように見える。ノモス(規則)ではなく、ピュシス(自然)としての音楽。
その自由自在は、実験的な手法から、時には伝統的な調性まで、あらゆる手法の往復を可能にしており、ゆえに作品は必然として、一種の小宇宙を形成することになるだろう。「交響曲」という形式が、こうした作曲者にとってもっとも適した器であることは言うまでもない。
新作の『交響曲第11番「φύσις(ピュシス)」』も、伝統的ともいえる急・緩・急の3楽章の中に、自由と自在が横溢した、しなやかな作品。第1楽章はまず、銅鑼の厳かな響きで始まる。やがて震えるような揺らぎから旋律が生まれ、反復音型が次々に増殖をみせる。動的な部分を終えると、強烈な下行音型の連鎖からチェロの独奏へと続き、祈るような静謐へ。続く第2楽章は、弦楽器がたゆたう中で、ホルンから木管楽器へと受け渡されてゆく様々な旋律が回遊してゆく。その息づかいは、書のような滑らかさを持っている。そして第3楽章は、マリンバの強烈な反復音型を、オーケストラがさまざまに彩る過程。やがて弦楽器も新しい反復を提出し、3連符、4連符、5連符の反復が縦に重なり合う立体的な音場が現出する。クラリネットからはじまる独奏群がいったん休止へと音楽を導くが、ふたたびピアノから反復音型が沸き上がったのち、最後は何者かに切断されるようにして、小宇宙は幕を閉じる。