Vol.23
《三彩鉢》
―「木米ブレンド」の真骨頂―
ちょっと深めの鉢です。
内側も外側も黄・緑・紫の三色で丁寧に塗り分けられています。群雲のように横へ広がる斑模様や、白地を残さない塗り分け方は別としても、この色使いの出どころはおそらく中国・清時代の景徳鎮民窯に産する三彩(俗称「虎皮三彩」)でしょう。
しかし、器形については他にモデルがありそうです。姿は杉形に近く、見込が鋭く窪み、高台は「ハ」の字に開く撥高台です。また高台削りは端正で、尖った円錐の山が作られています。もしこれを兜巾とみるならば、器形は呉器茶碗や御本茶碗などの高麗茶碗からの着想でしょうか。とりわけ深く窪んだ見込を持つ茶碗がモデルだったのかもしれません。
不思議なのは、鉢の側面の一方が明らかに内側へ押されていることです。ここから想起されるのは例えば江戸時代前期の京焼の名工・野々村仁清の茶碗です。
兜巾の上には磊落の書風で「金城精製」と大きく赤絵で記されています。口縁はすぱりと水平に切って赤く塗られており、ここにもまた強い作意を感じます。
本作は、江戸時代後期の京都の文人画家であり陶工でもあった木米(姓:青木、1767~1833)が、金沢の春日山窯において制作したと考えられています。木米は30代前半、木村蒹葭堂のもとで中国の陶書『陶説』を見て感銘を受け、これを翻刻しつつ製陶の糧としました。木米は、やがて文化2年(1805)、粟田青蓮院宮の御用焼物師になるまでに名を上げます。折しも同年、加賀では加賀国産の陶磁器を欲する気運が高まっており、金沢の薬種商人で町会所の町年寄を務める宮竹屋亀田純蔵章(号・鶴山)が京都に木米を訪ね、金沢での製陶を頼み込みます。招聘を受けた木米は、文化4年(1807)、金沢の春日山の一角に窯を築きました。これが春日山窯です。木米は翌年の冬には京都へ戻りますが、春日山窯は文政元年(1818)ごろの廃窯まで続きました。
江戸時代後期の京焼の名工の中でも、木米は煎茶器や中国陶磁の写しに力を発揮したと評価されます。しかし本作については、単一の中国陶磁を写したというよりも、中国陶磁をはじめ時代も地域もさまざまな古陶磁の造形が、木米の審美眼によって絶妙な配合でブレンドされているようです。熱心な古陶磁研究を土台に、広い視野をもち、異質な古陶磁の美と美を、因習を越えて柔軟に結びつけ新しい美を生み出していく木米の作陶の姿勢がここに見て取れます。
最後に高台内の「金城精製」銘ですが、これは金沢にて念を入れて作ったと読めると同時に、実は「精」の字が青木木米の「青」と「米」に分割できることから「金沢で木米が作った」という掛詞にもなっているのではないでしょうか。
出典:『サントリー美術館ニュース』vol.283, 2021.6, p.7
2023年2月27日