Vol.10
《八橋蒔絵硯箱》
「書く」ことでつながる
ー“ほぼ” 近衞家伝来品
硯箱は「書く」という事とともにあった道具であることから、物語や和歌に基づく意匠で飾られることが多いものです。本作でも蓋表には『伊勢物語』第九段の八橋が描かれており、蓋裏と見込には同じく八橋の「その沢のほとりの木の蔭に下りゐて、乾飯食ひけり。その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり」の景が描かれているとみられます(柳が交差する部分に隠された「蔭」の字にそれが暗示されています)。八橋は主人公の男が都を離れ、東国へ下る旅の途中に立ち寄った場所です。かつてはこの意匠に旅愁を掻き立てられたものだったのでしょう。
ところで、この硯箱を納める箱の蓋裏にはこんなことが書いてあります。
この硯箱は、大楽心院様のご遺物として拝領したものである。格別なものであり、長く家宝とするところである。
天明八年 五月八日 佐竹静休 謹んで記す。
つまり、この硯箱は大楽心院なる人物の形見の品として、佐竹静休が天明8年(1788)に拝領した、という伝来がここから分かります。
この佐竹静休は、摂関家の一つ、近衞家の諸大夫(家政職員)であった佐竹重威(1717〜1799)のことです。書の名手であった近衞家凞(1667〜1736)に仕え、その書法を学んだ書家でもありました。
一方の大楽心院は家凞の八男、寛深(1723〜1787)の号です。寛深は十二歳で得度して大覚寺門跡となり、父に書を学んだとされるほか、絵画の心得もあったらしく、渡辺始興筆の近衞家凞像を写した作品が陽明文庫に伝わっています。
さて、この二人の関係がわかると、ちょっとしたドラマが見えてきそうです。ともに近衞家凞から書の薫陶を受けた寛深と静休。歳も近く親密な間柄であったかもしれません。そして寛深は天明7年(1787)に亡くなり、翌年になって静休は本作を拝領しました。硯箱は書にまつわる道具です。それを形見として受け継ぐことは、書で近衞家と深く繋がっていた静休にとって、この上なく感慨深い出来事だったのではないでしょうか。
この硯箱は「書く」ということが作品の意匠だけでなく、作品をめぐる人々の思いにまで貫かれている点で、とても魅力的なものなのです。
本稿は2016年発行の『サントリー美術館ニュース』(vol.264, 2016.12, p.6)を2020年5月加筆修正しました。
2020年6月5日