Vol.9
《笙 銘「小男鹿丸」》
―生生流転の紀州徳川家伝来楽器コレクション
笙は古来、鳳凰が羽根を休める姿をかたどり、その音色は天から差し込む光を表すとされています。当館所蔵の《笙 銘「小男鹿丸」》(図1)は、凢管(ぼうかん)という竹管の内側に「建保三年 亥乙三月中旬造出了 信貴山僧行円生年五十四」と針書で銘が記されており、1215年に現在の奈良県生駒郡信貴山の僧行円が制作したとわかります。17本の竹管を差し込んだ頭の外面には、桐紋の間を飛び交う2羽の鳳凰を金蒔絵で描いた高雅な意匠が施されています。
本作で注目すべきはその伝来です。というのも、松平定信が編纂した日本各地の古文化財の図録集『集古十種』全85冊(1800年刊)のうち「楽器二」の冊に、紀州徳川家の所蔵品として、「小男鹿丸」の形状や意匠、針書銘が記録されているのです。実際、本作を収める三重箱の一番外側の箱には、当時の紀州徳川家の蔵品章が貼られています。
日本の楽器史、音楽史を語る上で欠かせない紀州徳川家伝来楽器コレクションの大半(161件・233点)は現在、国立歴史民俗博物館に収蔵されています。紀伊藩第十代藩主の徳川治宝(1771〜1852)は、特別な勅許を得て黄金五万両という莫大な資金を投じ、国内外から古今の楽器を蒐集しました。国立歴史民俗博物館の研究成果によると、治宝はそれらの楽器に銘をつけ、名器として相応しい箱や袋を新しく誂え、銘の下書きや鑑定書などの文書とともに愛蔵したといいます。
本作の銘も治宝による命名と考えられ、蓋の表面に「小男鹿丸」と金蒔絵で銘が記された中箱には、治宝と昵懇の国学者紀三冬による銘の下書きが同封されます。また内箱は、金の叢雲に金蒔絵の葵紋を散りばめた豪奢な作りです(図2左)。この他、笙を収める本式の袋や、金糸で葵紋を織り込んだ略式の替袋(図2右)、楽器商神田家による鑑定書(1805年)などが付属します。
本作は紀州徳川家が蒐集した最初期の楽器のひとつでしたが、いつの頃か散逸し、1964年より当館の収蔵品となりました。800年の歳月を経て、楽器から美術品へと転生した「小男鹿丸」の歴史に思いを馳せることもまた、本作ならではの味わい方と言えます。
出典:『サントリー美術館ニュース』vol.262, 2016.8, p.6
2020年5月29日