Vol.7
長山孔寅筆《牡丹図》(「棲鸞園画帖」より)
ー咲き誇る百花の王
百花の王、富貴花、天香国色、洛陽花、深見草、二十日草……これらの美しい名前が何を指すかご存知でしょうか。答えは「花開き花落つ二十日、一城の人みな狂えるがごとし」(白居易「牡丹芳」)と詠まれた牡丹です。日本でも古くから人々に愛でられ、『蜻蛉日記』や『枕草子』に記述があり、絵画のモチーフとしても高い人気がありました。図1には花開いた白色の牡丹と、花弁をとじ、淡く色づく紅色の牡丹が描かれています。葉には葉脈が描きこまれ、枝には陰影も表されており、白・紅・緑といった色のコントラストも見事です。
作者は、江戸時代の大坂で活躍した長山孔寅(ながやまこういん 1765〜1849)。出羽国秋田で生まれた孔寅は、十二歳で角館の酒屋に奉公し、久保田(現在の秋田市)で働いていた二十歳の頃、儒学者・村瀬栲亭の紹介で京に上り、四条派の祖である呉春(松村月渓)に師事しました。やがて同門の上田公長と大坂に移り、文化4年(1807)の大坂の絵師番付では和画の部第二位となっています。また、三条茂佐彦(さんじょうもさひこ)という名の狂歌師としても活動動し、蜀山人・大田南畝の『南畝帖』(大坂版・1824年刊)では挿絵を担当しました。墨江武禅『占景盤図式』にも挿絵が載り、幅広い交友関係があったようです。
さて、孔寅の《牡丹図》は、谷文晁や伊藤若冲、円山応挙、呉春門下の松村景文(図2)、上田公長らの絵とともに「棲鸞園画帖」という画帖に貼られています。花といえば、現在の日本では図2のような桜を連想しますが、中国宋代では牡丹を指し、「天下の真の花は独り牡丹のみ」(欧陽修「花品敍」)とまで言われました。富貴のシンボルとして描かれた吉祥画題で、四条派もよく取り上げましたが、特に孔寅の作品は「孔寅牡丹」と称され、複数の牡丹画が残っています。花の王を細やかに描き出した本図は牡丹描きとして活躍した孔寅の画業の一端を示していると言えるでしょう。
出典:『サントリー美術館ニュース』vol.259, 2016.1, p.6