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世界初!「青いバラ」への挑戦

「青いバラ」開発ストーリー
「青いバラ」誕生の秘密
suntory blue rose applause

「青いバラ」開発ストーリー>

青いバラ

英語で「Blue Rose」といえば「不可能(存在しないもの)」の象徴でした。それは、どんなに望まれても交配による品種改良では誰も青いバラを実現することはできなかったから。しかし、最先端のバイオテクノロジーと開発者たちのたゆまぬ努力により、「不可能」は可能になりました。プロジェクト起ち上げ時から参加している田中良和上席研究員、現在もプロジェクトの中心メンバーとして研究に携わる勝元幸久主幹研究員、中村典子研究員に、青いバラ開発成功に至るまでの想いを語ってもらいました。


1990年 青いバラプロジェクト、始まる
当時のプロジェクトメンバー:オーストラリア(1990年)

青いバラを創る──そんな不可能への挑戦が始まったのは、1990年のこと。サントリーはオーストラリアのベンチャー企業フロリジン社(当時はカルジーンパシフィック社、以降フロリジン社と記載)と共同で、この一大プロジェクトに取り組むことを決めました。80年代にバイオテクノロジーが飛躍的に進歩し、その技術を用いれば青いバラを開発できると期待されていたため、同様のプロジェクトに取り組んでいる研究チームは世界中にいくつもあり、水面下での競争はすでに始まっていたのです。

サントリーの研究員:日本(1990年)

青いバラを咲かせるために解決しなくてはならない、技術的な課題は2つ。1つは「青い花に含まれる数万種類の遺伝子の中から青い色素(デルフィニジン)を合成するために必要な遺伝子(青色遺伝子)を取り出す」ということ。もう1つは「バラの細胞に遺伝子を入れ、その細胞から遺伝子組換えバラを作製する方法を開発する」ということです。特に第一の課題である青色遺伝子は特許権で保護できるため、ライバルよりも早く見つけ出し、特許出願する必要がありました。

不可能の象徴「青いバラ」への挑戦が始まりました。 −田中良和上席研究員

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1991年 ペチュニアから青色遺伝子取得、特許出願

青い花を咲かせる植物は自然界にたくさんありますが、まず研究チームが青色遺伝子を取る対象として選んだのは、濃い紫色のペチュニアでした。そのわけは、以前からペチュニアはアントシアニンなどの花色研究のモデル植物だったため、すでに次のような知見が集積していたからです。

青色遺伝子を取り出したペチュニア

〇青色遺伝子はチトクロームP450型水酸化酵素(肝臓で解毒を担っている酵素の仲間)遺伝子であること
〇この遺伝子は花びらでは働いているが、葉では働いていないこと
〇青色色素を作らない赤いペチュニアには青色遺伝子がないこと
〇花弁が開く時に青色遺伝子が強く働くこと
〇染色体上の遺伝子座がわかっていたこと

これらをヒントに、ペチュニアが持つ2つの青色遺伝子の候補を3万種の遺伝子の中から300種ほどまでに絞り込みました。最初はペチュニアに候補の遺伝子を戻して花の色が変わるかテストし、青色遺伝子か否かを判断する計画でした。ところが、それでは花が咲いて色がわかるまでに数か月かかってしまいます。そこで、結果が出るまでの時間を短縮するため、植物ではなく酵母に候補の遺伝子を入れて活性をテストすることに。おかげで、一週間で答えが出るようになり、たくさんの遺伝子の活性を調べることが可能になりました。

当時の実験ノート

そして、1991年6月13日、ついに青色遺伝子の取得に成功します。

サントリーは、すぐにこの遺伝子の特許を出願。どのライバルチームよりも早く申請して特許を独占できたことが、この研究に単独で取り組む決め手となりました。このような活性を持つ遺伝子の特許申請はこれが初めてだったため、非常に広い範囲の特許が成立したのも幸運でした。実際に、この遺伝子をペチュニアやタバコに入れる実験をしたところ、青色色素の「デルフィニジン」の量が増えることが立証されました。これらの成果を記した論文は世界最高峰の科学雑誌「Nature」にも掲載されています。

青色遺伝子発見は、研究人生 最大の喜びの瞬間でした。 −田中良和上席研究員

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1994年 ペチュニアの青色遺伝子を入れたバラが開花、しかし…青く咲かない

植物に遺伝子を入れる方法はいくつかありますが、青いバラプロジェクトでは「アグロバクテリウム」という土壌細菌の力を借りて導入する方法を採用しました。この細菌は自分の遺伝子を植物の細胞に運ぶ能力があることから、多くの植物への遺伝子導入に利用されています。導入後、遺伝子を受け取った細胞だけをうまく選び出してバラの植物体に戻すには、植物ホルモンや栄養分の種類、濃度などを最適化しなくてはなりません。この作業を無菌的な条件で、試験管内の植物を用いて行うのが、いわゆる「組織培養」です。

試行錯誤を重ねながら、組織培養を繰り返す(当時)

バラの場合、遺伝子を入れてから花が咲くまでに1年ほどかかります。導入する遺伝子がどの程度機能するかは遺伝子組換えバラ1本ごとに異なりますから、できるだけ多くの遺伝子組換えバラを咲かせなくてはなりません。バラの品種によって遺伝子の入りやすさも大きく異なるので、試行錯誤を重ね、組織培養を続けました。

ようやく赤いバラに遺伝子が入るようになり、1994年に初めてペチュニアの2種の青色遺伝子を入れたバラが開花。ところが、遺伝子は確かに入っているにもかかわらず、花の色は赤いまま。青色色素は全く検出されなかったのです。

プロモーター(遺伝子の働きを調整する部分)の改変などの工夫を施してもうまくいかなかったので、今度はペチュニアではなく、別の花の青色遺伝子を導入することに。リンドウやチョウマメ、トレニアなど、青い花を咲かせるさまざまな植物から青色遺伝子を取得し、それぞれをバラに入れてみましたが、何度実験を重ねても「青色遺伝子が入っているのに青色色素ができていないバラ」しか咲きませんでした。

バラが青色色素を分解して いるのかと疑ったことも… −田中良和上席研究員

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失敗の連続…でも、いずれも 次につながる失敗でした −勝元幸久主幹研究員

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1995年 青色カーネーション成功
ムーンダスト

努力がなかなか報われず、このプロジェクトに携わる者にとってはつらい時期が続きました。そんな中、研究員を勇気付けたのが、遺伝子組換えによる青いカーネーションの開発成功でした。バラではうまくいかなかったペチュニアの青色遺伝子ですが、カーネーションでは期待どおり働いて青色色素「デルフィニジン」が蓄積し、花色も青く変化したのです。

この花は「ムーンダスト」と名づけられ、1997年から日本でも販売し、今では品種数も増えました。「永遠の幸福」という花言葉にふさわしい、気品ある美しい花が人気を博しています。

カーネーション生産現場(エクアドル)

遺伝子組換えによる花きの商業化は、ムーンダストが世界初。現在、この青いカーネーションはコロンビアとエクアドルで生産され、アメリカを中心に、ヨーロッパなどでも販売されています。国内では、濃淡さまざまな色合いの6品種のカーネーションが販売されており、現在では品種によりペチュニアだけはなくパンジーの青色遺伝子も用いられています。

青色遺伝子にひと工夫して 「青いカーネーション」が誕生 −田中良和上席研究員

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1996年 ようやくバラでも青色色素が蓄積。花の色が変化

この頃になって、ようやくカーネーションだけではなく、パンジーから得た青色遺伝子を導入したバラでも青色色素ができ、花の色もはっきりと変化するようになりました。ただ、遺伝子を導入できたのが赤いバラだったため、この段階ではとても「青いバラ」と呼べるものではなく、花の色は黒ずんだような赤色でした。とはいえ、青色色素がつくられたことで、いよいよ青いバラ誕生への道筋が見えてきました。

青色色素ができても、花の色がどの程度青く見えるかは、遺伝子を導入するバラのもともとの性質に大きく依存します。例えば、青色色素が蓄積する細胞の液胞内のpHが低い(酸性)と赤く、中性だと青く見えます。また、青くなりやすい成分、青くなりにくい成分が液胞内にあるかどうかでも色は大きく左右されます。つまり、青色色素があるだけでは、必ずしも花の色が青くなるとは限らないのです。

そこで、市販されていないバラも含めて数百種の中から、青色色素の含有率が高くなりやすく、青くなる資質を持った品種を40種ほどに絞り込んで、青色遺伝子を入れる実験を重ねて見た目にも青いバラの開花を目指しました。並行して組織培養の方法も改良を重ね、いろいろな品種のバラに遺伝子を入れることができように研究は続けられたのです。

バラの花色色素合成の経路

「青いバラができる!」と活気づきました −田中良和上席研究員

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プレッシャーの分だけ、やりがいも大きかった −勝元幸久主幹研究員

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1998年〜2002年 青色色素100%まで ついに青いバラが誕生

遺伝子を植物の細胞に導入するためには、まず細胞の機能や形態がまだ分化していない、不定型な細胞の塊(これを「カルス」と言います)を培養しなくてはなりません。つまり、葉になるのか茎になるのかも決まっていない細胞の塊に青色遺伝子を導入して、それを育てて、バラを咲かせるわけです。このカルスを作るだけでも一年程度かかりますから、非常に時間がかかる気の長い実験です。研究員たちは忍耐強く、カルスにパンジーの青色遺伝子を導入する作業をひたすら続けました。この手法はサントリーが開発したオリジナルなものです。多くのバラの品種に遺伝子を入れることができるため、青いバラ開発の根幹をなす技術です。

1998年から1999年頃にかけて、やや青みを帯びたバラが咲きはじめました。さらに遺伝子導入を継続したところ、その努力の甲斐あって青色色素が100%近く蓄積したバラを咲かせることができました。これらの中からより青い系統の品種を選びだしたのが、2002年のこと。ついに世界初の青いバラが誕生したのです。さらに、このバラを接木で増殖することにも成功し、同じ色を安定的に咲かせること、正常に生育することも確認しました。

さまざまな品種に入れて青さを追求 −田中良和上席研究員

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青いバラの開発プロセス
2004年 ついに開発成功を発表

2004年6月には世界初の青いバラ開発成功の広報発表を行い、会見場で実物をお披露目しました。その反響はすさまじく、新聞各紙の一面を飾り、海外でも大きく取り上げられました。一般のお客さまの間でも大きな反響を呼び、小学生からお年寄りまでたくさんの温かい声が寄せられました。青いバラ開発ストーリーは理科などの教科書に掲載されたり、国立科学博物館などで展示されたり、多くの教材としても利用されています。開発の科学的な内容に関しては論文発表を行い、日本植物生理学会の論文賞を2009年にいただきました。

とはいえ、青いバラをお客様にお届けするには、もう1つのハードルを越えなくてはなりませんでした。サントリーが開発した青いバラは遺伝子組換え技術を用いて開発されたものなので、一般に栽培、あるいは販売するためには、「遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物多様性の確保に関する法律」(通称カルタヘナ法)に基づき、農林水産省と環境省から認可を得る必要があります。

「青いバラ」

そのためにはさまざまな実験を行い、今回開発したバラを国内で生産・販売しても生物多様性に影響しないことを証明しなくてはならないのです。例えば、青いバラの花粉を野生バラなどに受粉させるなどの交雑試験を行い、導入した遺伝子が野生バラに広がる心配がないことを実証するために4年もの時間が費やされました。認可が下りたのは、2008年1月31日のことです。

青いバラ誕生のニュースが全世界を駆け巡りました −田中良和上席研究員

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認可取得のために北海道の荒野まで飛びました −中村典子研究員

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2009年
夢かなう 佐治信忠

世界初の青いバラは「SUNTORY blue rose Applause」と名づけられ、販売が開始されました。アプローズとは「喝采」という意味で、花言葉は「夢 かなう」です。夢をかなえるために努力してきた多くの人へ喝采を贈りたいという想いが込められています。

青いバラは商品化されましたが、サントリーの不可能への挑戦はまだ終わったわけではありません。自然界にはもっと青い花はたくさんあります。これらの花は青色色素を合成できるだけではなく、アルミニムなどの金属イオンやフラボンなどをはじめとするさまざまな化合物と青色色素を複合させることで、より青い花を咲かせているのです。また、青色色素が入っている細胞内の液胞のpHが高い方が青くなることもわかっています。

このような青い花を咲かせる仕組みをバラで再現することができれば、現在のアプローズよりも、さらに青いバラを咲かせることができるはず──。「もっと青いバラ」を目指すサントリーの挑戦は、今日も続いているのです。

「不可能への挑戦」はまだ終わっていません −田中良和上席研究員

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お客様から届く温かい声が何よりも嬉しいです −勝元幸久主幹研究員

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海外でお客様にアプローズを提供できる日が来ますように −中村典子研究員

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青いバラを、もっともっと青くしたい。次世代の研究者も、挑戦を続けています

[研究者たちの仕事]もっと青いバラを咲かせることを目指して

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※部署名、役職名、写真は、制作(インタビュー)当時のものです。

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