バーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえるバーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえる

51

ウエスタン・サルーン

開拓時代のサルーンは生活のあらゆるものをまかなう場所であったといえる。

オーナーの資質や経営規模にもよるが、酒を飲む場であるだけでなく質素な飯屋でもあれば、旅籠にもなった。役所の機能を果たすところもあれば、郵便局や職業斡旋所、雑貨屋、床屋、葬儀屋、教会、賭博場、そして映画のなかでよく見られる決闘場になることもあった。

裁判所にもなった。離れた大きな町から判事がやってくることもあれば、サルーンのオーナーが裁判官の役割を務めたりもした。西部の歴史はサルーンがつくった、と述べている文献が多くある。

男の子たちは自分が早く成長し、大人の仲間に加われる日を待ち焦がれた。スイングドアを開けてカウンターに歩み寄り、25セント硬貨をバーンと置き、もったいぶった声で酒を注文する自分の姿を夢見たのである。

そんな欲望を感じない少年は、西部の男といえなかった。何十マイルも馬で駆けてサルーンを目指す若者もいた。それが成人式だった

ところが鉄道網が充実し、スピードと量の文明というものが入り込んでくると、西部男のサルーンは古典となってしまう。とくに陸の孤島ともいえる地にあったサルーンの近場に駅ができて町が広がると、それまでのいつ訪れるとも知れないカウボーイや猟師、ギャンブラーといった旅人相手の商売から、内装に金をかけて多くの客を集める商売へと変わっていった

鉄道が猛スピードでいろいろな物資を大量に届けた。マホガニー材のカウンター、板ガラスの鏡、ルーレット台、ピアノなどがサルーンに入り込み、インテリアは格段に美しくなる。オーナーたちはバーカウンターの長さを競うようになる。カウンター客の足下には噛みタバコのツバを吐くための痰壷が置かれ、髭についたビールの泡を拭うためのタオルが一定間隔に吊るされたり、置かれたりもした。

豪華列車プルマン・カーや鉄道駅を拠点としたハーヴィ・レストランといった洗練されたサービスの影響を多少なりとも受けるようにもなった。19世紀末からは西部の多くの酒場が垢抜けていくようになる。

酒の品揃えも充実し、飾り棚をしつらえ、棚の背後には大きな鏡がはめこまれ、その棚に各種の酒のボトルが並んだ。いつの間にか樽から瓶に変わり、客たちはボトルを眺めながら飲むようになった。


一方、19世紀後半のアメリカンウイスキーは混沌とした時代を迎えていた。東部を中心にライウイスキーは相変わらず飲まれていたし、バーボンウイスキーの生産量は増えつづけていた。しかしながら禁酒運動の高まりとともに酒税も上昇する。課税から逃れ、アパラチア山脈の山奥で密造酒をつくるムーン・シャイナーたちが増えていく。密造酒に香料を混ぜたりしたウイスキーとはいえない悪酒が市場を荒らすのだった。

いつも述べていることだが、わたしたちは幸せな時代を生きている。口当たりの麗しい高品質なバーボンを堪能できる。その象徴はビーム家6代目ブッカー・ノォーが1988年に生んだ「ブッカーズ」。これをその100年前に生きた男たちに飲ませたら、どんな反応を示すだろうか。深い熟成感と60度を超えるアルコール度数を感じさせない洗練された味わいに、さぞや驚くことだろう。

(第51回了)

for Bourbon Whisky Lovers