ジャズの話をしよう。クールなジャズにはすっきりとした口当たり、軽快な陶酔が似合う。今回はバーボンソーダ(ハイボール)、あるいはクラッシュドアイスをグラスにぎっしり詰めたバーボンミストを用意してお読みいただきたい。
30年ほど前、わたしにジャズについてさまざまに語ってくださったのはアメリカ文化に造詣が深く、若い頃はドラマーであり、その後スティックをペンに変えてエッセイスト、ジャズ評論家として活躍された久保田二郎氏(1926−1995)である。久保田氏はスイングジャーナル誌の大ブレーンで、編集長を務められたこともあった。1958年に植草甚一(1908−1979)に声をかけ、ジャズ・エッセイ連載に挑ませた人でもある。植草はやがてサブカルチャーを語りはじめ、1960年代後半から70年代にかけて多くの若者から支持を得ることになる
久保田氏とは親子ほども年齢が離れており、わたしにとっては近所のオヤジ的存在だった。喫茶店や酒場でよく会っていた。ブラックコーヒーかバーボンソーダ、ときにバーボンミストを飲みながらいろんな話をしてくださった。わたしがメーカーズマークのソーダ割を飲んでいたら、久保田氏がグラスを横取りして、「あっ、これも旨いな」といってそのまま全部飲まれてしまったことがある。懐かしく楽しい思い出を胸に、今回は話をすすめたい。
ジャズという音楽はニューオーリンズで誕生したといわれているが、ジャズという言葉はシカゴで生まれた、という説がよく知られている。
シカゴは前回連載で語ったように19世紀後半から五大湖周辺の一大拠点として繁栄していった。とくに工業都市としての発展にはめざましいものがあった。加えてアメリカの産業構造も農業から工業中心へと変化していくなかで、南部から北部工業都市へと移住する者たちが増大する。とくにシカゴ周辺は大量の労働者を欲しており、20世紀に入ると南部の黒人たちが大挙して集まった。
1910年代の南部から北部への移動人口は900万人(黒人は400万人弱)近い数にのぼる。シカゴ、カンザスシティ、デトロイト、もちろんニューヨークも黒人人口が膨れ上がった。
連載37回『ブルース』で述べたが、黒人たちは広大な綿花畑で懸命に働きながら怒りや悲しみを歌にしたことからミシシッピ・デルタ・ブルースが生まれた。奴隷解放により自由の身となりながらも、結局は苦しい状況の小作農として生きていくしかなかった彼らの多くがシカゴへ、工業都市へと北上した。ミシシッピ川河口のニューオーリンズからもシカゴへと移動するものも多くいた。そのなかにはニューオーリンズのジャズ・ミュージシャンもいたのである。