こうした世相の中、1780年にケンタッキーに入植したスコッチ・アイリッシュ(スコットランド系北アイルランド出身者)の一家、サミュエルズ家6代目ビル・サミュエルズ・シニアは世界で評価される最高品質のバーボンを目指して研究を重ねていた。
アラン・フリードがレコード店で事件を目にした1951年、ビルはバーズタウンの南、風光明媚なロレットの谷に廃屋同然だった小さな蒸溜所を見つけて買い取る。その敷地内の湖からはプロセスウォーター(仕込み水)として最良なライムストーン・ウォーターが湧き出ていた。
同時に製造法のさまざまな実験を繰り返す。原料穀類の配合を試すためにパンを焼きつづけたのもそのひとつ。ライ麦よりも冬小麦で焼いたパンのほうがまろやかで口当たりが良いことから、冬小麦を使った配合比を見出す。
1953年、建物を改築し、設備を新たに整え、蒸溜を開始した。
革ジャンにリーゼントが流行る一方で、アイビーの若者がいたように、ビルはロックンロールとはまったくかけ離れた世界で研鑽を積んでいたといえる。パンを焼きながらもし彼が音楽を聴いていたとしたら、おそらく地元ラジオ局が流すカントリーミュージックだっただろう。
メーカーズマークが樽熟成をはじめた頃、『波止場』の監督エリア・カザンが、1955年にジェームス・ディーンのネイティブな魅力を煌めかせた『エデンの東』を発表する。こちらも若者の心理を見事に捉えた作品だ。
同年、映画『暴力教室』(監督リチャード・ブルックス)が若者のこころを激しく揺さぶり、燃え立たせた。主題歌"Rock Around The Clock"が流れ出すと、映画館の観客である若者たちは立ち上がって踊りはじめたという。
ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツが前年にカヴァーしたときには注目を浴びなかったが、青少年の非行に取り組んだ当時としてはセンセーショナルな映画と響き合い、全米だけでなく世界的なロックンロール・ブームを巻き起こすきっかけとなった。さらにはエルビス・プレスリーの登場がミュージックシーンだけでなく社会を大きく揺さぶることになる。
ビル・サミュエルズ・シニアがいま生きていたとしたらこう言うかもしれない。
「ロックンロールには興味はなかったが、わたしもロック・アラウンド・ザ・クロックだった。若者は時を忘れてブッ通しロックに熱狂した。音楽に新風が巻き起こったように、わたしは他にはないウイスキーづくりに没頭していた」
50年代前半、荒削りのロックンロールが流行ったとき、ビルはディテールを追求し、ディテールを積み重ねるバーボンづくりに挑戦し、やがてまろやかな熟成を迎える。その間、ロックンロールもまた変化していくのだった。
さて、今回はここまでにしておこう。では、絹のようになめらかで、柔らかく甘美なメーカーズマークをオン・ザ・ロックでいただくとしよう。
(第4回了/次回第5回その2につづく)