15歳になったバードは、リノ・クラブの裏庭に忍び込むようになる。このクラブのラジオ放送からスターへの階段を昇っていったカウント・ベイシー(連載第12回『ラジオ・デイズ』に関連)のバンドが出演していた。ベイシーのピアノに、レスター・ヤングのサックスに、聴き惚れるのだった。
その時のカンザスシティのナイト・クラブにはサックス奏者の錚々たる名手が揃っていた。ハーシェル・エヴァンズ、ベン・ウェブスター、バッド・ジョンスン、プロフ・スミスなどが集まっており、彼ら全員がバードの師であった。そのなかでもレスター・ヤングは、バードにとって特別な存在だった。
バードは必死に練習する。ハイ・ハットというクラブが誰でも歓迎のジャム・セッションをおこなっていて彼も挑戦する。そこで屈辱的な敗退をする。さらに猛練習をし、ダンスホールのバンドに雇われるようになり、4歳も年齢をごまかして演奏家組合に入り、その会員証で仕事を得て金を貯めた。ついにセルマーの新品のサックスを買う。16歳だった。
リノ・クラブに挑戦した。ところがリズムを狂わせるという大失態を犯す。哄笑と野次に怒号を浴びた傷心のバードを救ったのはブルースシンガーだった。自分のバンドに誘い、レッスンをしてくれた。暇な時間はレスター・ヤングのソロがフィーチャーされたカウント・ベイシー・バンドのレコードを徹底的に聴いた。
17歳になる夏、バードは飛躍的な成長を遂げる。そしてリノ・クラブに再挑戦する。驚くほどの喝采を浴びた。レスター・ヤングのアルトのようで、またひと味違う音に感じられる素晴らしいものとして受け入れられる。一流の仲間入りを果たしたのだった。
リノ・クラブと契約し、豪華メンバーと共演するようになる。その時の契約バンドにはプロフ・スミスがいた。スミスは毎晩のように手本を示した。バードは彼から刺激を受けただけでなく、マウスピースやリードをサンドペーパーで整形するコツさえも教わった。
天才的といった枕詞で語られるチャーリー・パーカーだが、彼は決して天才ではなかった。カンザスシティの音楽環境に育てられ、名手たちに刺激を受け、努力してビバップの伝説となったのだ。
バードが18歳になる頃、カンザスシティは活気を失いつつあった。プロフ・スミスはニューヨークへ行ってしまう。後を追うようにバードもシカゴへ旅立ち、そしてニューヨークへと向かうのだった。
さて、次回もバードの話をつづけよう。ニューヨークでの交遊関係を語るつもりだ。それまでアルトサックスの音色にこころ委ねながら、ジムビーム ミストをたっぷりと味わっておいていただきたい。
(第20回につづく)