バーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえるバーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえる

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ラジオ・デイズ

デューク・エリントンが魅了されたピアニストの名前はカウント・ベイシー。

彼は無駄な音を使わないスタイルを発展させたといわれている。多くのジャズ・ピアニストが十分に弾きこなして表現してきたものを、少ない音で表現してみせた。そして自分自身をピアニストとは決していわず、まわりのミュージシャンから最高のものを引き出す能力のある人物だった。

ベイシーのピアノをデュークが店の外から立ち聴きしていた頃はまだ無名で、ファッツ・ウォーラーに師事していた。ウォーラーは最高のミュージシャンでエンターテイナーであった。いつもジンをピアノの傍に置いて、飲みながら作曲したという。自由奔放で、金に困ると安く曲を売り飛ばし、有名作曲家にやってしまった曲がかなりあるとさえいわれている。ただし巨漢がたたり、1943年に39歳という若さで逝ってしまう。


では、カウント・ベイシーがどうやって名声を得ることができたのか。

ベイシーは20年代後半にウォーラーから地方巡業の仕事をもらうようになり、ドサ回りをつづける。1935年にはカンザス・シティのリノ・クラブと契約を結びステージを重ねる。

その年の11月のこと。ベニー・グッドマンはシカゴのコングレス・ホテルに出演していた。グッドマンの演奏がはじまるとプロデュースをしていたジョン・ハモンドは、ひとりになりたくてホテル駐車場のクルマの中で時を過ごす。

すでに午前1時。カーラジオをつけてもどこの放送局も放送を終了していた。ハモンドは無意識のうちにダイヤルをいちばん端へと動かしていく。

このときカウント・ベイシーに幸運の矢が射さる。夜の暗幕に覆われた静かな駐車場の車中に、素晴らしい音色が響いた。1550キロヘルツからピアノ演奏が流れてきたのだった。ハモンドは自分の耳を疑ったという。

1550。放送設備を整えたリノ・クラブがW9XBY局として実験放送をおこなっていたダイヤルだった。ハモンドはカーラジオから流れ出るそのサウンドに痺れ、たちまちにして虜になった。この後しばらくして、彼はなんとか時間をつくってカンザス・シティに向かう。

バーボンウイスキー10セント、輸入ウイスキー15セント、ビール5セントと店の看板に書かれたリノ・クラブを訪ね、その耳でベイシーと彼のバンドの演奏を十分に堪能した。完璧な間、完璧な和音。ホーンプレーヤーに与える刺激。ハモンドは酔いしれた。

ニューヨークに戻ったハモンドは、猛烈にカウント・ベイシーを売り込む。それにしても、もしハモンドがベニー・グッドマンの演奏中に駐車場に行かなかったら。カーラジオのダイヤルを目一杯まわさなかったら。1930年代、ラジオは人間の運命さえも決定づける、大きな影響力を誇るようになっていた。

(第12回了)

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