SUNTORY CHALLENGED SPORTS PROJECT
車いすバスケットボール 男子日本代表 香西宏昭 × JWBF(日本車いすバスケットボール連盟) 専務理事 及川晋平 常に対等な関係でいられる、師弟であり友人
「共創」をテーマに、アスリートとそのアスリートとともにチャレンジする人との関係にスポットライトを当て、チャレンジド・スポーツの魅力を伝えていく「サントリー チャレンジド・スポーツ プロジェクト」。今回は、車いすバスケットボール日本代表として、東京2020パラリンピックで銀メダルを獲得した香西宏昭選手と、同大会で日本代表監督を努めた及川晋平さんにインタビュー。長きにわたり選手とコーチとしての師弟関係を築き、現在でもその関係が続いているというふたりは、これまでどのように世界と闘ってきたのか。そのチャレンジにかける想いを語ってもらった。
――まず香西選手から。車いすバスケットボールをはじめたきっかけなど、これまでの経緯をお聞かせください。
香西 小学6年生のときに住んでいた家の近くで車いすバスケットの体験会があって、そこに父と行ったんです。それまで友だちと野球をするのが好きで、プロ野球をテレビで観たり、球場に行って試合を観戦したりはしていましたが、正直、車いす競技や車いすバスケットボールにはほとんど興味がなかったんですね。でも、体験会に行ってみたいと僕が父に言ったんですよ。それが車いすバスケットボールをはじめたきっかけです。
後日、別の試合を観に行ったときに晋平さんにはじめてお会いして。そこから個人練習のやり方だったり、それをノートにつけていくことだったり、練習しながら成長していくようなやり方についていろいろと教わりました。例えばランニングシュートにしても、10回やっても10回成功しないということを相談したら、「10回を目指すからじゃない? 20回を目指したら10回いくんじゃない?」なんて。その頃から目標の立て方とか、積み重ねることの大切さみたいなものを教えてもらったのを覚えています。その後、晋平さんが「Jキャンプ」という育成キャンプを立ち上げてくださって、僕は1回目のキャンプ参加者の1人だったんですが、そこでマイク・フログリーさんと出会ったりして、徐々にプロ選手、日本代表として活動できるような道が開いていったという感じです。
――及川さんは2001年の「Jキャンプ」をはじめ、2002年には「NO EXCUSE」を立ち上げるなど、現在指導者としてその地位を確立しています。自身も選手として日本代表でプレーされていたところから、指導者・経営といった道に進んだ理由は何でしょうか?
及川 30年ほど前にアメリカに留学し、自身が車いすバスケットボールで上手くなることに魅力を感じていた一方、バスケの本場アメリカで展開される車いすバスケットボールという競技そのものが、もの凄くおもしろい競技に感じられたんです。当時、アメリカに車いすバスケをしながら留学する日本人なんか誰もいなかったので、自分の技術を磨くと同時に、日本に帰って仲間たちとともに競技の楽しさそのものを広めたいということを思い描いていたんですね。なので、ある意味プレイヤーとして日本代表を目指すことをしつつも、コーチになりチームを作っていくという気持ちになったのは、すごく自然な流れだったんです。やっぱり、車いすバスケットの楽しさというのを多くの人と共有したいところが、いちばんの根っこの部分だったので。
でも、これまでにない新たな未来を見据えて競技を導入するというのは、どうしてもそれまでのやり方とぶつかることも多かった。特にアメリカから色々なことを持ってくるのは、日本の今までの文化やバスケットボールの考え方と、どうしても干渉してしまうことがあったんです。そういったところで、私とみんなとで一緒に創っていくというのは、楽しさや充実感がある一方、かなりハードな過程ではありました。それを選手たちとひとつずつ乗り越えてきたという感じです。
――おふたりの共通点として、イリノイ大学への留学、そして世界で名将と謳われるマイク・フログリー氏との出会いがありますが、同氏の指導は具体的にどのようなものだったのでしょうか?
香西 僕は合計6シーズン、マイクさんに教わることができたんですが、いちばんわかり易いというか、すごく細かいとこまで見てくれるコーチでした。ひとつのフェイクにしても「ナイスフェイク」といちいち言ってくれたり、前日に個人のビデオミーティングで話していた内容を覚えていて、翌日の練習で見ててくれたりだとか。車いすバスケットの基礎的な部分を、なぜこれがうまくいくのかという"Why"の部分を、わかり易く科学的な根拠まで説明してくれる教え方というか、「このプレーはこれがこうなっていくから上手くいく」というのをしっかり教えてくれる方でした。あの6年間がなかったら今の自分はないと思うし、バスケットボールの基礎的な部分をみっちり(すごく迷惑をかけながらですけど)教えてもらえました。
また、僕も他の選手も、選手としてだけじゃなくひとりの人間として育ててもらった。当時僕はチームでキャプテンを任されることもあったんですが、練習中に起きたミスを怒るのではなく、「起きたものは仕方ないからその後にどういうことができるのか」という話をしてくれる。そういう教え方をしてくれた、まさに僕にとっての恩師という存在ですね。
及川 宏昭が話すように、いちコーチとしてどうかではなくて、私にとっても人としての恩師です。フログリーと出会ったのは、彼がコーチを始めてまだ2年目ぐらいの頃で、私も選手でまだまだ甘っちょろい頃だったので、彼がどんどんコーチングを学んでいくのと一緒に、自分も選手として育っていったような関係で。もちろん彼はカナダのナショナルチームを率いて金メダルを3個も獲って、名実ともに世界随一の車いすバスケットボールコーチになったわけですが、最初のスタートは「晋平の車いす俺が直してあげるよ」みたいなお互い駆け出しの頃からの付き合いなので、友だちであり指導者でもある、不思議な関係です。
また、当時の日本の指導方法では何がダメなのかがわかっても、どうしたら上手くなるかは教えてくれない。それは自分で探さなきゃいけなかったんですね。でもフログリーは「ここがこういう風になると、もっとこんなことができるよ」って、みんながワクワクしながら練習できる方法で教えてくれた。車いすバスケットボールはこういう風に習得していくと、こういう風にうまくなるんだな、というロジックを創っていったんです。そして、褒めて育てるというか、その人の良いところはどこかをちゃんと見てくれる。みんなそれぞれ良いところがあるという個性を見て、褒めて伸ばしてくれるんです。本当に細かく。それによってチームがすごくポジティブに、前向きなエネルギーをもって進んでいくのを実際に経験させてもらい、それが私もコーチをやりたいと思うきっかけにもなりました。
――現在は香西選手は、クラブチーム「NO EXCUSE」、そして日本代表で及川さんと共に闘い、クラブチームでは数々のタイトルを獲得。さらには昨年の東京2020パラリンピックでも"晋平JAPAN"のメンバーとして銀メダルを獲得しました。そんな香西選手にとって、及川さんはどのような存在なのでしょうか?
香西 僕にとってはマイクさんと同じで恩師だと思っています。冒頭でもちょっとお話したように、練習での目標設定や積み重ねのことなど、プレーをしているといろいろなことを教わったんだなと、大人になってからもあらためて気付かされます。そもそも晋平さんが留学していた時代にやっていたことを日本でも広めたいと思ってくださったからこそ、Jキャンプが立ち上がって、そこに僕も参加することになったし、マイクさんとも出会うことができた。本当に僕のなかにあるいろんな可能性を広げていってくれた人だと思います。
そして、常にチャレンジをさせてくれるというか、「いいじゃんそれ、まずはやってみなよ」っていうように、思い切ってチャレンジさせてくれる人。普通は「ちょっとそれってどうかな?」って言われることの方が多いんですけど、晋平さんは「何かあったらこっちがどうにかするから」ぐらいの立ち位置で、いつも下から支えてくれます。ただ、晋平さんは僕のことを17歳の頃から"友だち"って言ってくれて、恩師でもあるし、すごく近い存在でもあって。そのなかで、たくさんのことを気づかせてくれたり、バスケットボールの楽しさを思い出させてくれる。そういう人に少年時代で出会えたこと、しかもマイクさんと晋平さんのふたりも出会えたというのは、僕にとって本当に幸運だったなと思います。
――では逆に、及川さんにとって香西選手はどんなプレーヤーなのでしょうか? 指導者として、印象深いエピソードなどはありますか?
及川 もちろん、宏昭には小・中・高校といろいろなことを伝えてきて、彼も一生懸命習得しようと努力してくれた。私もいちコーチだったので、一緒にそういう選手と成長していこうというかたちでやってきました。でも、宏昭がナショナルチームに入ったころからは、私が言ったことを選手としてただやるというレベルではなくて、一緒になってチームを創り上げていくような存在になりました。我々日本代表チームが掲げたメダル獲得というのは誰も想像できないような高い目標設定だったので、まずは現実に想像できるマインドをみんなで創り上げていこうといったときに、やっぱり彼がいちばん頼りになった。特に伝えたことをコートの上で表現するのが上手いので、本当にメダル獲得に向けて自分たちが目指す在り方を、いつもコートの上で示してくれた存在です。私はコーチとしての役割、彼は選手としての役割を常にまっとうする存在として、常に対等な良い関係。そこに上下関係はないと思っています。
印象に残ってるプレーについては沢山あって、例えば東京2020パラリンピックのときにあれだけ3ポイントを決めたっていうは、非常に大きなプレーだったと思います。でも、私にとっていちばん印象的なのは、まだ宏昭が10代の頃に決めた左手のレイアップシュートなんです。みんな自分が左利きじゃないことで難しいと思い込んでしまっている。だけど宏昭はそれを、非常に早い段階で上手に決めていたんです。どのレベルにいても「あれはできない」「これはできない」とならずに、何でもやり方さえ覚えれば難しくないということを示してくれる選手なんです。いまでも彼にチャレンジさせているのは、そういう姿勢が若い選手たちにも良い形で影響されて欲しいと思っているからなんですよね。
――いい関係を築かれてきたおふたりですが、前述にもあるように東京2020パラリンピックでは銀メダルという過去最高の成績を残すことができました。この結果を踏まえ、現在の日本代表を共に創ってきたおふたりから見る現在の日本代表の位置とは?
香西 東京2020パラリンピックで銀メダルを取ることができて思ったのは、決勝を戦った日本とアメリカが、いまの最先端の車いすバスケットボールをやっているということです。これまでの車いすバスケットボールでは、ハーフコートだったり、3ポイントラインの中での戦略というのはいろいろとあったんですが、コートを広く使ってバスケットボールをすることができていたのは、大会を通して日本とアメリカの2チームだけだったと思います。だからこその銀メダルだったのかなと。
そしてそれを達成できたのは、やっぱりJキャンプまで遡ることになると思うんですけど。例えば現在、日本車いすバスケットボール連盟で当然のように話されているスキルの名前だったりというのも、20年前にはまだなかったと聞いています。僕は過去のことはわからないですけど、そんな環境だったものが、いまのかたちになるまでに浸透していったというのは、Jキャンプなどで20年間積み重ねてきた結果なんですよ。
僕たちはこれまで負けてる回数の方が全然多い。勝てると思って挑んだら負けてしまった......、ということの連続で、ちょっとずつ勝てるようになってきたけど、順位は変わらないという時代をずっと過ごしてきました。それでも、自分たちが信じたバスケットボールを、日本の中で少しずつ広めて積み重ねてきた。そのうえで、ようやくとれた銀メダルだと思います。
及川 スポーツではよく"世界との距離"という考え方をしますが、自分たちが戦っていくのは世界のなかでの国々であって、そのチームとのギャップを距離で測る考え方を私はあまりしたくありません。私なりに東京2020パラリンピックまでにチームを創っていく中で最も気を付けていたのは、世界に対して我々がどう向き合うかということ。どうしても世界が上で日本が下という構図を作ってしまいがちですが、本当は世界が日本を追いかけてきているかもしれない。つまり、どうやって世界の中の日本を見るかというのが大事なんです。どこかで「世界が強くて日本が弱い」みたいな偏った認識があって、どうしてもみんなそこまでの距離を測ろうとしてしまう。でも本当は、日本はどういう戦力を使ったらいちばん強いチームになるのか。ということを大前提にする必要がある。その上で、各国とどう組み合わせていくのかというのが良い結果につながるのだと思います。
宏昭も言っていますが、フログリーから車いすバスケットボールの基本的なことをすごくたくさん教わって、それを長い時間をかけて選手たちがきちんと収得し、アレンジして表現してきた。東京2020パラリンピックの後にフログリーとも話したんですが、「日本代表チームは、私たちが一緒に作ってきたベイシックな細かい部分まで全部知っていて、いちばん基本的なことを表現できている。それは世界のトップレベルだ。それをこの20年という早いスピードでやり遂げたというのは、たまたま起こったことではない。自分たちが銀メダルに値する強いチームを創ったことを堂々と誇りに思え」という言葉が彼から返ってきたときに、今までやってきて良かったなと思いました。メダルを獲るという目標を掲げてから、それを選手たちが信じてくれて実際に実現したというのは、まさに奇跡のような結果で、共にチームを創ってきた者としても感無量でしたね。
でも、世界はそのままじゃないんです。日本がパラリンピックで銀メダルを獲ったことで、世界の構図はもう変わっている。銀メダルとったチームがまた世界に挑戦し、次は金メダルを獲れるという計算式は成り立たないんです。常に変化している世界に対して、これからどう向き合っていくのか。あの東京2020パラリンピックでの奇跡を再現できるのかどうかというのは、そこにかかっていると思います。
――最後に、現在日本ではバスケットボールの熱が高まっていると言われています。車いすバスケットボールが今後もっと盛り上がるためには、どんなことが必要でしょうか?
香西 車いすバスケットボールは、Bリーグと比べてしまうとまだまだファンは少ないかもしれませんが、東京2020パラリンピックを機にたくさんの方々に見てもらう機会も増え、認知もされてきました。それが大会後にどうなったかというと、また少しずつ減ってしまっていると感じているので、いろいろと仕組みを変えていく必要があるのかもしれません。でもそれだけではなくて、僕が当時Jキャンプで感じた車いすバスケットボールの本当の楽しさや、積み重ねること、チームみんなで一緒に上手くなっていくことなどを、もっと下の人たちにも伝えていく活動をしていきたい。そこが、僕が選手として頑張れるところだと思っています。
及川 東京2020パラリンピックが終わって数年が経ち、今はナショナルチームにいた頃とは全然違った景色を見させてもらっています。これから車いすバスケットが盛り上げていくために必要なことだと感じるのは、まず、車いすユーザーがいつでもどこでも車いすバスケットボールをできる環境が少ないということ。障がいを持っている子どもたちや車いすユーザーの人たちは、近くの体育館を使って車いすバスケットボールをしたいと言っても、まだまだ一般利用のなかでは難しいのが現実。これは深刻な問題ですし、解決していきたい私たちの大きな課題だと思っています。
しかしながら、東京2020パラリンピックを通して今まで出会うことのなかった多くの方々と一緒になり、このパラリンピックを創り上げてきましたし、結果を出してみんなで盛り上がるということを経験することができました。これまでは特別な手当や支援のなかでの枠を越えることができず、人との繋がりも限られてしまっていました。でも、東京2020パラリンピックでの功績は、我々の今までの世界とは違う世界をつくってくれたと感じています。あの成功を経て、今度は次のゴールに向かっていかなければならないんです。それは、私個人がどうこうではなく、関わっている人たちみんなで挑戦しなければならないことです。
もちろん、それには車いすユーザーが取り残されてしまわないようにもしなければいけません。パラリンピックのときのように、車いすユーザーがいつでも見られる、楽しめるような環境を、どうやったらみんなで創り上げることができるか? デザインできるのか? ということも、私の中でクリアしていきたい課題だなと思っています。
PROFILE
こうざい ひろあき●車いすバスケットボール日本代表
1988年7月14日生まれ、千葉県出身。先天性両下肢欠損の障がいを持つ。12歳で車いすバスケットボールに出会い、2001年にはNPO法人Jキャンプが主催する「第1回札幌キャンプ」に参加。高校卒業後に渡米し、イリノイ大学で名将マイク・フログリー氏のもとでプレー。2013年にドイツ・ブンデスリーガのハンブルグとプロ契約を結ぶ。移籍したRSVランディルの主力選手として2021-2022シーズンリーグ優勝に貢献。高校1年でU23日本代表に選ばれて以降、日本代表としてパラリンピックに4度出場し、4度目の出場となった東京2020パラリンピックでは銀メダルを獲得。現在はNO EXCUSEに所属。
おいかわ しんぺい●日本車いすバスケットボール連盟 専務理事
1971年4月20日生まれ、千葉県出身。高校1年で骨肉腫を患い右足を切断。5年の闘病生活を経て車いすバスケットボールに出会い、1993年に千葉ホークスに入団。22歳でアメリカに留学し、現地クラブチームでプレーしながら、名門イリノイ大学の練習に参加。名将マイク・フログリーの指導を受ける。選手として、自身もパラリンピックに出場した後、2001年には「Jキャンプ」、2002年にはクラブチーム「NO EXCUSE」を設立。2012年ロンドンでは男子日本代表のAC、2016年リオでは男子日本代表のHCを経て、東京2020パラリンピック男子日本代表監督に就任し、チームを銀メダルへと導く。