SUNTORY CHALLENGED SPORTS PROJECT

車いすバスケットボール 男子日本代表 鳥海連志 × 車いすバスケットボール 男子日本代表  古澤拓也 オレたちでダメなら他のヤツでもダメ!

車いすバスケットボール 男子日本代表 鳥海連志 × 車いすバスケットボール 男子日本代表 古澤拓也 オレたちでダメなら他のヤツでもダメ!

「共創」をテーマに、アスリートとそのアスリートとともにチャレンジする人との関係にスポットを当て、チャレンジド・スポーツの魅力を伝えていく「サントリー チャレンジド・スポーツ プロジェクト」。今回は、車いすバスケットボール日本代表として世界と戦う若きふたり、鳥海連志選手と古澤拓也選手をインタビュー。日本代表、クラブチーム「パラ神奈川SC」ではチームメイトとしてともに闘い、試合ではスターティングファイブを争う良きライバルとして切磋琢磨する彼らは、日々何を想い闘っているのか? ふたりの関係とその熱き心情に迫る。

  

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――まず、鳥海選手にお聞きします。車いすバスケットボールをはじめたきっかけは?

鳥海 車いすバスケットボールをはじめたのは中学1年生のころ。当時、僕はソフトテニス部に所属していて、その横で女子バスケットボール部が練習していたんですけど、外部コーチで来られていた方が車いすバスケットボールの審判をされていた方だったんです。その方が偶然僕を見ていたようで、声をかけていただいたのがきっかけです。それまで車いす競技をしていたわけではなかったんですが、プレーをしたとき、観客や応援する側として関わっていたスポーツから競技者になるという"うれしさ"を感じたのを覚えています。と言っても、実際にやってみると車いすも真っ直ぐにこげないし、シュートも届かない......みたいな。はじめは出来ないことだらけすぎて、逆に凄くワクワクしたというのが僕のスタートですね。

そこから練習して、佐世保WBCという九州のチームに所属することができて、九州で1位になるっていうのを目標に頑張りました。そのうちにU23日本代表に選んでいただいて、その1年後に日本代表の強化指定選手に選んでいただいた。というのがこれまでの経緯です。

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――続いて、古澤選手が車いすバスケットボールをはじめたきっかけや、これまでの経緯を簡単にお聞かせいただけますか?

古澤 僕は12歳のときに脊髄空洞症っていう脊髄の病気で車いすユーザーになったんですが、もともとは野球大好きな野球少年で、何か車いすスポーツでできるものはないかと母が探してくれたのが車いすバスケットボールでした。僕の場合は小学校のときもずっと野球をやっていたので、それまでバスケットボールにはまったく触れてきていなかったんです。だから、車いすバスケットボールをはじめて体験したときは投げ方もわからないし、すぐにはのめり込まなかった。でも、そこに講師として来ていた選手の方に、一緒にチームの練習に参加してみなよって誘われて。そのチームメイトの先輩方にシュートの仕方を習ったんですけど、やっぱり全然初心者だったんで、リングにボールが届かないんですよね。だから、まずはボースハンド(両手打ち)シュートを打つところからはじめて、徐々に筋肉がついてきてワンハンドシュートにして。みたいな感じで、出来ないことが出来るようになっていく楽しさがあって、徐々にのめり込んでいったんです。それと同時にジュニア(18歳以下)の選手合宿があって、同世代の選手たちとやる楽しさみたいな魅力にもハマっていきました。

その後16歳のときにU23日本代表に選んでもらって、21歳のときに日本代表の強化指定選手にも選んでもらい、いまに至るという感じです。あと、20歳から23歳まではU23日本代表のキャプテンを任せてもらっていました。

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――おふたりは現在、パラ神奈川SCと日本代表の両方で、抜群のコンビネーションを発揮されていますが、はじめて出会ったときの印象は? そして、現在はどのような存在でしょうか?

鳥海 拓ちゃんと初めて会ったのは、U23日本代表の合宿です。僕があんまり先輩のことを立てることができない後輩だったので、当時から"拓ちゃん"って呼んでいて(笑)。そんなに先輩風を吹かすタイプでもなく、優しく僕のタメ口に対応してくれたというのが、僕がはじめて会った拓ちゃんの印象です。

でも、お互いが若かったしライバル関係でもあったので、4年くらい前にすごく仲が悪かった時期があって......。ハイパフォーマンスカテゴリーのイギリス遠征のときに、コーチから「とりあえずお前らふたりで話してみろよ」って言われて、ホテルのロビーで数時間、ふたりだけで話し合ったことがあるんですけど、そこで本音を全部吐き出してからはお互いの良いところも悪いところも知っているというか、なんかある種の家族みたいな関係になれたかなって思います。

古澤 連志の第一印象は、当時U23日本代表の強化組と新しく入った育成組がいて、連志は育成の方にいたんですけど、たった半日で強化の方に上がってきて。「すごく活きの良い無邪気な子が来たな!」みたいな感じでした。僕は当時代表1、2年目で世界選手権にも出た後だったんですけど、僕の目から見ても連志は練習ごとにどんどん上手くなるし、僕よりも先輩の選手と1対1をやっても凄く食って掛かっていたので、とにかく負けず嫌いだなって思いました。

連志が言っているように、イギリス遠征のときはメンタル面もまだまだ若いしお互いライバルなわけで、話し合いをするまでは正直いって険悪な感じでしたよ。いまのような関係になったのは、連志がパラ神奈川SCに来てくれて、一緒に過ごす時間が多くなって、より切磋琢磨するようになったのもあるかなと思います。あとは、あの出来事(イギリス遠征での話し合い)から、チームも凄く強くなったので(笑)。連志も言ったようにいまは家族のような、兄弟のような感じ。ずっと一緒にいる訳ではないんですけどね、代表でもクラブチームでも、お互いが無理なく自然に一緒にいるみたいな関係です。バチバチしてた時期、僕がU23のキャプテンで連志が副キャプテンっていう、いちばんバチバチしてちゃいけないときだったんですけど、いろんな出来事を経てお互いのことを理解しているからこそ、何も考えなくていい、家族みたいな存在になれたのかなって思います。

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――そんなおふたりはプライベートでも仲が良いと聞きました。ふたりでの思い出やプライベートでのエピソードなどはありますか?

古澤 連志とは取材やイベントでも一緒になることが多いので、都内に出かけたら一緒に洋服を見に行ったりします。連志は凄くファッションが好きなんですけど、僕もシンプルなファッションが好きで、たとえばざっくりと「ケーブルニットが欲しいんだけど、何かいいのある?」って聞いて、お店に案内してもらったりしています。

鳥海 僕は拓ちゃんの誕生日に毎年プレゼントをあげていたんですが、あるとき酵素の入浴剤を30個くらい買って、ラップとアルミホイルで丸めてボールっぽくして渡したことがあるんです。あれを渡してから誕生日プレゼントを渡したりもらったりってことが無くなったんですが......、ほんとに嫌だったのかなって(笑)

古澤 想像よりデカかったんですよ。「ほらっ」ドンって渡されて。確かにそこから誕生日プレゼントの交換はしなくなりましたね(笑)

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――チームの戦術以外に、おふたりだけの決めごとや連携プレーなどは何かありますか?

鳥海 日本代表だと同じサイドを組んだりもするし、連携がかかることが多いので、どっちサイドから攻めていくかをその時どきにふたりで決めたり、シュートを打たせたいメンバーを活かすような崩しをしていくっていうのは、ふたりのなかで創り上げるコンビネーションです。そこは、別にコーチからこうしろっていう指示が出ている訳でもなく、与えられたスペースのなかで僕たちがどうしていくのか決めています。試合前に「こういうシチュエーションになったら、こういう選択肢があるよね」っていうように、いろいろなシチュエーションをふたりで話し合っておいて、同じイメージを持ってプレーするように心がけています。

古澤 基本は、3種類くらいのパターンを持っておいて、そのパターンが上手く行かなかったときのためのパターンも用意しておいて。それでも上手くいかなかったら、もう切り替えて次に行こうっていう感覚でプレーしています。そこは試合なので、やっぱりすべてが上手くいくことはないんですけど、でも僕の役割はドリブラーなので、連志とのコンビネーションで上手くいかなかったら、「このプレーで上手く行かないなら、他の人でも上手くいかないよな」っていうメンタリティではありますね。でも、連志とのコンビネーションで崩して上手くいかなかったってケースは、ここ最近では無いかもしれないです。いまはクラブチームも一緒なので、日本代表とクラブチームではそれぞれまた違った役割があったりするんですが、それはそれで違った風景を見ながら、楽しみながらやっています。ただ、最終的に思い描いているものは変わらず一緒だと思っています。

  
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――鳥海選手は先日、U23世界選手権において中心選手として見事優勝を飾りました。そのときの想いや感想をお聞かせください。

鳥海 あの大会(2022年9月に開催されたIWBF男子U23車いすバスケットボール世界選手権)は、5年前に出た前回大会とはまた違う戦い方をしていて、拓ちゃんの世代(1996年生まれの世代)がいないっていうのは僕たちの中でもかなり不安だったんですけど、そこに頼っていた分「やっぱり先輩たちは超えたいよね」っていう思いがあって、前回大会は4位で終わっているので、まずはメダルを獲得するというのを最低目標にしていました。もちろん僕は優勝を狙ってましたけど(笑)。それで、実を言うと大会直前の練習試合でドイツ代表と厳しい試合をしまして。優勝を目指して来たのに、本当にこれで優勝できるのか......、決勝リーグに行けるのかな......みたいな不安要素があったんですけど、そのドイツ戦を皮切りに、チームに対して一人ひとりがどういう役割で貢献していくのかってところをより話し合い、切り替えることができたんです。U23という若くて近いメンバーだったからこそ、僕と拓ちゃんがやったようにすべてを話し合い、パーソナリティまで全部知って関わっていくってことが出来た。だからあの大会の勝因は、いろいろなことを話し合い、チームが1つに団結できたところかなって思います。
その一方で各国チームにはエースという存在がいて、1試合に20得点もするような選手が揃っている。そんななか僕ら日本代表は、僕と高松(義伸)と赤石(竜我)の3人が軸となって点を取り、そこからプレーを派生させていくっていうスタイルだったので、絶対的なエースがいなかった。そうやって、みんなで助け合いながら戦うというのは、裏を返すと得点力が無いということなので、僕としてもそこはまだまだ大きな課題でもあります。
とはいえ、結果として目標としていた世界一になれましたし、前回大会、今回大会と連続で大会ベスト5にも選んでいただきました。前回は自分が好き勝手やっても先輩が色々と軌道修正してくれたので、すべてをコントロールしながらチームを勝たせていくなかでの今大会の優勝だったり、ベスト5というのは、僕にとっても価値が違ったというか、やっぱり嬉しかったです。それまでU23にかけてきた想いをそこで果たせたので、本当に良かったなって思います。

  

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――では古澤選手は、ご自身がキャプテンを努めた2017年のU23世界選手権はベスト4という結果でした。後輩である鳥海選手たちが優勝した姿を見て、率直に何を感じましたか?

古澤 僕はU23世界選手権に2回出場していて、キャプテンとして出場した前回大会は残念ながら4位。チームとして本当は3位になれる力があったのに、チームを立て直すことができずメダルを獲れなかった。なので、自分のなかで忘れものをしてきたような感じが凄く強かったんですね。今回大会で連志だったり、高松だったり、赤石っていう前回大会も一緒に闘ってきたメンバーたちが優勝してくれたので、自分の心の忘れ物を後輩たちが取ってきてくれたっていう思いがあって。シンプルに優勝してくれたことが凄くうれしかったんですが、まず優勝というよりもベスト4の段階で、優勝候補と言われていたスペインに勝って決勝に行ったというのは、僕たちが破れなかった相手を破ってくれた瞬間だったんです。あそこで勝つっていうのは、そう簡単なことじゃないというのがわかっているからこそ、そういうチームになってくれたというのは、やっぱり凄く頼もしかったですね。ちゃんと日本は強くなってるっていうか、経験してきたことは無駄じゃないんだっていうのを証明してくれたのかなって思います。
日本が東京2020パラリンピックで銀メダルを獲った後、コロナ禍で天皇杯が開催できなかったり、チームの活動もあまりできなかったりという苦しい時期が続いていたなかで、車いすバスケットボールの熱を冷まさないような、いちばんいい結果を出してくれた後輩たちに感謝したいという思いもあります。連志もそうですが、普段一緒に練習しているメンバーたちが、「メダル獲ってきますから」「勝ってドヤって来ます」って言って出ていって、ほんとにそれを達成してきたのは凄いなって思いますね。特に、前回一緒に闘ってたメンバーのパフォーマンスは、僕にとってもいい刺激をもらえましたし、もっと自分も頑張って行こうと思いましたね。

  
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――日本代表としては、東京2020パラリンピックでは銀メダルという過去最高の成績を残しました。これからは中心選手として日本代表を背負っていくおふたりは、どのようなチームを共に創っていきたいですか?

鳥海 日本代表チームとしては、まずはパリパラリンピックの出場権を獲得するというのが2023年の大きな目標になってくると思います。そこまでに完成度を高めるっていうのは絶対的にやらないといけないことで、そのためにいまはコミュニケーションとかコンディションというよりも、個々の能力を上げることが大事だと思っています。チームの核として不動のスタメンを勝ち取るっていうのは僕の野心でもあるし、僕が日本代表の心臓として、チームをコントロールしながら戦うというのが目標です。そのためにも、僕自身がもっと成長しなければいけませんし、チームとしてもそれぞれが課題を持ってしっかり取り組む必要がある。それに尽きるかなって思います。

古澤 チームをどうしていきたいっていうのも、もちろんありますが、東京2020パラリンピックでは「自分の成長がチームの強さにも繋がる」っていうことをもの凄く感じました。東京2020パラリンピックでも、決めなければいけない責任を伴うシュートを打つ場面が何度もあったので、もう一度その場面を獲得してきちんと決めきるためには、もっともっと精度を上げなければいけない。僕はどっちかというとチャンスメーカーという感じですが、もちろん僕もスターティング5を狙っていきたいですし、僕が出ているとチャンスになったり、流れを変える仕事ができる選手に、今後なっていきたいと思っています。

鳥海 より力強く、もっと自分のドリブル力やシュート力を信じて、体格が良くてスピードもあるような選手とマッチアップしても、技術とスピードで抜いてしまうような、そんな拓ちゃんになって欲しいです(笑)。

古澤 世界を見ても、連志のようにここまでオールラウンドにプレーができる選手はなかなかいないので、今後もそこを貫いて欲しいと思ってます。もう、僕が言わなくてもどんどん成長しているし、何かを求めるっていうのは特に無いんですけど。でも難しいんですよね、オールラウンドを求めていくってことは。一個を磨けば別の一個を磨くのがおろそかになってしまうので。ただ、僕はそういう連志を見てみたいというか、もっとプレーでワクワクさせて欲しいです(笑)。

  
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――最後に、現在日本ではバスケットボールの熱が高まっていると言われています。車いすバスケットボールが、今後もっと盛り上がるためにはどんなことが必要でしょうか?


鳥海 健常者のバスケットボールはウインタースポーツと言われているので、シーズンがない時期を車いすバスケットボールのシーズンにしてしまえば、1年中バスケットボールを観られる環境をお届けできるんじゃないかなって思ってるんです。ウインタースポーツって、限定しているように言われてること自体がもったいないなって。Bリーグの試合がある日に、同じ時間帯で車いすバスケットボールの試合をやっても観客はどちらかに取られてしまうし、時間をズラしてやっても観客の体力が持たない。そういう部分を色々とフラットに考えてみて、まずは車いすバスケットボールのリーグをはじめることからかもしれませんが、リーグの開催期間とかにも柔軟性を持たせてやっていくことで、より多くの人に車いすバスケットボールを観てもらうことのきっかけになったり、発展にも繋がるのかなっていう思いはあります。
僕が選手としてできることとしては、まずは色んな大会でしっかり結果を残していくこと。そこは絶対だと思います。あとは、もっと車いすバスケットボールの競技性としての魅力を伝えていきたい。僕はいま「Push UP」という車いすバスケットボールの3×3(ハーフコートでの3人制の試合)の大会を主催しているんですが、この大会はゴールがあれば街なかでもできるようなイベントにしたいという想いからスタートしたものです。そうやって多くの人に競技を観てもらう機会を作ることが大事ですし、車いすユーザーだからってすべてを手助けが必要な訳ではないだとか、色々と体験して知ってもらうことも価値だと思う。言葉を変えると、車いすバスケットボールをもっと親しみやすいスポーツにしていくことが必要だと思っています。これは、5人制でも必要なことだと思ってるので、今後はJWBF(日本車いすバスケットボール連盟)にも、そういうところで期待していきたいです。

 
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古澤 東京2020パラリンピックを観て車いすバスケットボールを好きになってくれた方たちが、実際に試合を観る機会が少ないっていうのは、やっぱり課題だなと思う。連志も言っていたように、リーグの開催や開催時期は考える必要がありますね。あとは、「車いすバスケットボールはいまどこをより良くしていきたいのか」ということを明確にしたほうがいいと感じていて。例えば、ファンを増やしたいのだとしたら、現状の試合方式ではなくトップリーグだったり、カップ戦での1日の試合数(現在のカップ戦は1日に数試合行う)を1試合のみに調整していくとか、そういう変化をしていく時期にあるのかな。という思いと期待はしています。日本の車いすバスケットボールがファン獲得よりも競技者を増やしていくことを優先するのであれば、色々なパラスポーツがあるなかで車いすバスケットボールの人口を確保できるよう、もっと選手たちの待遇を良くしていくとか、アピールしていくべきだと思う。ただ、すべてをすぐには出来ないでしょうし、何が最優先なのか、それはJWBFや選手、関係者たちで議論していかなければいけません。でも、トッププレーヤーである僕たちとしては、やっぱりより多くの人に観てもらいたいし、より知ってもらいたい。その中で活躍したいと強く思っています。
選手として僕個人でやっていきたいと思っているのは、ジュニアの選手たちの育成。日本で車いすバスケットボールをはじめる場合、どこかのクラブチームに入ってからスタートするのが基本となるため、クラブチームに入る前の触れ合うようなタイミングで何かができればって。車いすバスケットボールはジュニア世代が競技に触れ合う機会がまだまだ足りていないと思っていて、基本操作を教える指導者であったり、高価な競技用車いすの数を確保するのも難しい。でも、きちんと教えることができるコーチがいて、子どもたちが競技用車いすを自分で購入しなくても、その場に行けば自分で乗って覚えていけるような場所だったり、教室だったりがあれば、車いすバスケットボールの楽しさや魅力をもっとわかってもらえるかなって思います。そういう可能性を切り開く活動は、誰かがやれば広がっていくと思うので、僕がその第一人者になって行けたらいいですね。

 

 

PROFILE

ちょうかい れんし

●車いすバスケットボール日本代表1999年2月2日生まれ、長崎県出身。株式会社WOWOW所属。両脚の脛骨欠損、両手指の欠損で生まれ、3歳の頃に両下肢を切断。中学1年時に車いすバスケットボールと出会い、地元の佐世保WBCに入団すると、すぐに日本代表の強化合宿に招集。2016年のリオ大会に車いすバスケットボール最年少で出場。以降もU23とシニアの両方で中心選手として活躍し、東京2020パラリンピックでは大会MVPに選出される活躍で銀メダル獲得に貢献。さらに、2022年9月に開催されたU23世界選手権では、男子日本代表を優勝へと導いた。クラブチームはパラ神奈川SCに所属。

 

ふるさわ たくや●

車いすバスケットボール日本代表1996年5月8日生まれ、神奈川県出身。株式会社WOWOW所属。先天性疾患(二分脊椎症)とその合併症の影響で、小学6年から車いすユーザーとなる。中学1年で本格的に車いすバスケットボールをスタート。順調に実力を伸ばし、高校2年でU23日本代表に選出。2017年6月に開催されたU23世界選手権では、キャプテンとしてチームのベスト4進出に貢献。日本代表としても東京2020パラリンピックに出場し、銀メダルを獲得。クラブチームは鳥海選手と同じパラ神奈川SCに所属する。

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