SUNTORY CHALLENGED SPORTS PROJECT
視覚障がいT13クラス400m 東京2020パラリンピック日本代表 佐々木真菜 × 東邦銀行陸上競技部 監督 吉田真希子 × 東邦銀行陸上競技部 コーチ 天下谷真弓 できないことを諦めないこと。その心の強さが結果になる。
現役の陸上競技選手として、400mと200m(ともに視覚障がいT13クラス)の両種目で日本記録、アジア記録を保持する佐々木真菜選手と、東邦銀行陸上競技部で指導者として同選手を支えている吉田真希子監督、天下谷真弓コーチの3名をインタビュー。佐々木選手が世界の舞台で活躍するまでの軌跡や、お互いの関係性などを聞かせてもらった。
――まず、佐々木選手にお聞きします。本格的に陸上選手として活躍しはじめたきっかけは?
佐々木 私が出場しているのは「視覚障がいT13クラス」といって、クラス分けのなかではいちばん障がいの軽いクラスです。私の場合は眩しさを過剰に感じてしまう「無虹彩(むこうさい)」という障がいと、「眼球振盪症(がんきゅうしんとうしょう)」という、視界が揺れて見えてしまう障がいを持っていて、他の選手では視界の中心が見えない方や、視力はあるけれど極端に視野が狭い方など、それぞれ視覚に障がいのある選手たちが競います。私は中学1年のときから視覚支援学校に通っていたのですが、2年生の時に東北大会の800mに出場した際に2位になることができて、「自分はこんなに走れるんだ!」ということに気づき、もっと速く走りたいと思ったことがきっかけで、本格的に陸上競技をはじめたんです。
もともと走ることが大好きで、小学生の頃から誰にも負けたくないっていう強い気持ちがありました。成長するにつれ、その気持ちがどんどん強くなっていったから記録にもつながったと思います。当初は「次はこうやって走ったらどうだろう」とか、「最後まで走りきろう」とか、そんなことを目標にしながら純粋に走ることだけを楽しんできました。2013年、自分が高校1年生のときに東京パラリンピックの開催が決まったのですが、当時T13クラスでは100mと400mという選択肢しかなく、世界を目指すうえでトップレベルの選手たちと競うには400mなら可能性があると感じたので、高校2年生で400mと200mに転向しました。
――吉田監督、天下谷コーチにお聞きします。これまで、トップアスリートとして輝かしい成績を残してきたおふたりが、指導者を志したきっかけは?
吉田 私はもともと陸上が大好きだったのですが、大学に入るまでは全国大会で入賞するような成績は残すことができなくて、まさか自分が日本記録を出すような選手になるとは思っていませんでした。でも、大学で川本(和久)先生という恩師に出会うことができて、そこから陸上競技のおもしろみというか、自分を伸ばすことができる楽しさや喜びみたいなものを学び、それがモチベーションとなって、選手として長く陸上競技をすることができたんです。本当に、全然強くない高校生だった私がここまで成長できたのは、川本先生との出会いも含めてすごく恵まれた環境でした。そういう機会を与えてもらえたということ自体が、私のなかで"ギフト"だなって思っていますし、それを私だけのものにせず、しっかり恩返ししていくというか、陸上界に還元していくことが大切なのだと思ったことが指導者の道に進んだ大きなきっかけです。きちっとした知識や考え方次第で「人の可能性はこんなにも広がるんだ」ということを身をもって感じたので、きっともっと能力の高い才能のある子たちだったら、もっと高みを目指せるんじゃないかという思いがあって。そのお手伝いが出来たらいいなと思っています。
天下谷 吉田監督と少し重なる部分もあるのですが、指導者になろうと思ったのは、恩師である川本監督との出会いが大きいですね。自分が現役でアスリートをやってきて引退したときに、これまでやってきたことを指導者として活かして欲しいというお話を川本監督からしていただいて。競技者として自分が経験してきた経験自体には、貴重な経験をさせてもらったと感じていましたし、指導者というお話をいただいたときに、「自分の経験がこれからの未来を担う若いアスリートたちの役に立てるのであれば、選手たちをサポートしていくことができるんじゃないか」って。そう思ったことが、指導者となった大きなきっかけです。
――健常者アスリートとパラアスリートの指導において、何か違いはあるのでしょうか?
吉田 よく聞かれるのですが、スポーツにおいて「自分の限界を超えていく」ということに関しては、健常者でも障がい者でも、どちらも同じことなんです。現在東邦銀行には、(佐々木)真菜も含めて7名の選手が在籍していますが、それぞれに個性であったり、改善しなければいけないところや課題があったりします。個々への伝え方もそうですが、感じ方というのも本当にそれぞれで、そのなかのひとりとして真菜がいる。真菜は視覚的な障がいこそ持っていますが、より速くなるための練習という点では何も変わりません。ただ、見様見真似でこれをやってみてってことは難しいので、どうやったら真菜の感覚に到達できるか、音であったり、実際に触ったり、言語化したり、そういう「伝え方」という部分では我々が考えながら工夫するように心がけています。そうしたコミュニケーションは、私たちにとっても非常に勉強になっていますね。
天下谷 そうですね。選手によってアプローチが違うというところはもちろんあるんですが、陸上競技、種目において必要なことというのは、結構共通する部分が多いんですね。私は真菜以外のパラ選手と話をさせてもらうこともあるのですが、400mで戦うために必要な要素というのは同じでも、障がいによって練習方法や伝え方の手段というのには違いがあるので、指導方法にもさまざまな工夫が必要です。真菜への指導を通して逆にこちらも理解が深まることもあったりして、一緒にやりながら互いに成長しているような感覚です。
吉田 ただ、私たちは真菜が見ている世界を見ることができないので、「見えているだろうと」思いながら関わっている部分もあって。今回の世界パラ陸上(2023年7月にパリで開催。佐々木選手は5位)は接戦だったのですが、練習のときから人と競る方が調子がいいと本人も言っていたので、決勝で実際に接戦になったときは私たちも隣の選手を認識していたのかと思っていたのですが、実はそのとき、真菜本人は視野の問題で周囲の選手が見えていなかったらしくて。練習のときは足音や息使いといった音でも感じ取ることができるんですが、世界パラ陸上は歓声も凄く、音楽も流れていたのでまったく分からなかったみたいなんですね。そうやって、真菜を深く知るうえでも、まだまだ気づかないことは沢山あります。そういう部分はコミュニケーションを取りながら、さらに理解を深めていきたいと思います。いまは真菜も、どんどん世界のトップに近づいてきている状況で、その先のメダルを取るというところまできています。そういう意味でも、私たちが二人三脚でさらに高めていければとは思っています。
――佐々木選手は、吉田監督、天下谷コーチの指導や支えもあり、世界の舞台でも結果を出しています。佐々木選手にとって、ふたりはどのような存在なのですか?
佐々木 例えるならば、点字ブロックと白杖のような感じ。すごく安心感を持てる、そういう存在ですね。点字ブロックは視覚障がいの人に欠かせないもので、「ここで進め」「ここは信号だから止まれ」という風に、目が見えない人の歩行を支えるものです。吉田監督は、まさにその道を作ってくれているような存在なんです。そして、天下谷コーチは白杖のように、いろいろな大会で慣れていない場所に行ったり、初めての大会に行く道のりを、ここは大丈夫だよって助けてくれる存在。どちらも私にとって、凄く大切な存在なんですね。私は陸上競技でしか恩返しはできませんが、そうやってメダルや記録というところにスポットを当てて、来年のパリパラリンピックに向けて頑張っていきたいなって思っています。
――吉田監督、天下谷コーチのおふたりには、佐々木選手はどのように見えていますか?
吉田 初めて会ったときは走り方もまだまだというか。筋力や体力も全然足らなかったんですけど、パラアスリートでもよく「Impossible(不可能)」に「'(アポストロフィ)」を付ければ「I'm possible(私はできる)」に変わるなんて言ったりしますが、できないことをできるようにしていくという努力の積み重ねというか、本当に走り方や技術、いろんなことを一つひとつ乗り越えていく根気強さ、ひたむきさというのは、真菜のいちばんの魅力だなって思います。
天下谷 真菜とはじめて会ったときは、こういうインタビューで堂々と話をしているのが信じられないくらい凄く人見知りだったんです。陸上に対してもそうですが、たぶん健常者の世界に入っていって、初めてのことだらけだったと思うんですよね、普段の生活でも、社会人生活でも。でも真菜は「これはできない」ということは絶対に言わないし、何でもトライしていく強い気持ちを持っている。やっぱり陸上競技(トラック競技)というのは、必ずできるようにしていかないと記録は縮まらない。それを今できているというのは、本当に真菜が努力を続けてきたからだと思うんです。
それに、同世代の陸上をやっている健常者の仲間たちが周りにいるという環境も、これまでそんなに多くなかったと思います。仲間たちに囲まれて陸上をやる楽しさだったり、練習帰りの日常的な時間だったりを経験している姿を見ると、やっぱり年相応の女の子だなって思う。そうした真菜のちょっとした成長を、姉のような目線で見ていることもありますね(笑)。
――現在、陸上競技、特にトラック競技での日本の力が伸びているなかで、今後パラ陸上をもっと加熱させていくには、どんなことが必要だと思いますか?
佐々木 やっぱりチャレンジしないと何も進まないというか、進化することはできないと思うんです。私個人としても、自分ができないことをできないままにはしたくないという気持ちがあるし、諦めない心というのは凄く大切だなってことを感じています。そのためにも、まずは「知ってもらうこと」。現在、ほかのスポーツでもいろいろなパラアスリートが活躍していて、最近はさまざまなメディアや教科書などにもパラスポーツのことが載っていたり、多くの方に知ってもらえたり、注目してもらう機会も増えています。それをきっかけに、世のなかの障がい者の方にも、何かスポーツにチャレンジしてみようと思っていただけたらうれしいですし、私もそのきっかけになれるような選手になれたらなって思います。
吉田 私は東京2020パラリンピックが、はじめてパラの世界大会を本格的に見るきっかけになったんですが、もの凄く魅力的だなって思ったんです。真菜のいる女子400mもしかり、他の種目の選手たちも、見ていて気持ちが凄く前に出るスポーツだなって思って、本当に感動しました。それと同時に、パラをもっともっと多くの人に知ってもらいたいという気持ちになりました。海外ではパラスポーツにも大勢の観客の方が応援に来ていて、みんなで盛り上げているという風潮があるので、日本もそうなっていってくれたらって思いますね。最近では健常者の大会にパラアスリートが出場していますし、私たちも普段からパラの選手たちに接する機会も増えてきていて、そういう相互理解を深めるような機会はすごくいいなって思うんです。もちろん、いろいろなリスクだったり、難しさみたいなものはありますが、そういうところを少しずつクリアしながら、一緒に盛り上げていけたらいいなって思います。
天下谷 私の場合は東京2020パラリンピックの前からパラ競技にも携わっていたんですが、そのなかでパラスポーツの競技スポーツ化を凄く感じていたんです。だからこそ、選手たちの記録もどんどん高まっていて、世界記録も上がっているので、そういった魅力もまたあると思うんですね。ハンディキャップがありながらもこんなに記録を出すんだとか、こんなに凄い動きをするんだっていう、スポーツとしての魅力が凄くある。どの競技もそうですが、盛り上がるためには結果が大切というか、選手たちが活躍する姿がいちばん魅力が伝わると思うので、そこは私たちももっと頑張っていきたいと思います。あとは、東京2020パラリンピックが自国開催だったこともあって、あの大会がパラスポーツを多くの人に知ってもらうきっかけになったということを凄く感じました。
佐々木 私自身の話をすると、今回の世界パラ陸上では5位という結果で、メダルまであと一歩というとこまでこられたことで、自分で課題をひとつずつクリアすることだったり、諦めない気持ちというのが本当に大事だということを改めて感じました。来年は神戸で世界パラ陸上、そしてパリパラリンピックもあるので、しっかり出場すること、そしてメダルを獲得することを目標に、世界トップレベルの選手にも負けないよう頑張っていきたいなって思っています。
PROFILE
ささき まな●陸上競技選手/視覚障がいT13クラス400m東京2020パラリンピック日本代表
1997年9月2日生まれ、福島県出身。東邦銀行陸上競技部所属。生まれつき目に入る光の量が調整できない「無虹彩症(むこうさいしょう)」先天性の弱視で、中学・高校と福島県立盲学校に進学し、卒業後に東邦銀行陸上競技部に加入。専門種目は400mと200m(ともに視覚障がいT13クラス)で、両種目の日本記録、アジア記録を保持している。2018年のアジアパラ競技大会(インドネシア・ジャカルタ)では400mで金メダルを獲得。2019年パラ陸上世界選手権400mでは4位入賞。東京2020パラリンピックでも7位入賞を果たし、世界トップレベルのパラアスリートとして活躍している。
よしだ まきこ●東邦銀行陸上競技部 監督
1976年7月16日生まれ、福島県出身。高校卒業後、福島大学に進学し日本屈指の陸上競技指導者である川本和久氏(前・東邦銀行陸上競技部監督)に師事。東邦銀行陸上競技部所属。2001年の東アジア大会では4×400mリレー日本チームのメンバーとして日本記録(当時)を樹立したほか、個人でも2003年の日本選手権で女子400mハードルの日本記録(当時)を樹立するなど、2014年に引退するまで、リレーを含めて日本記録を9回更新。現役引退後は指導者になり、東邦銀行陸上競技部のコーチを務め、2022年に川本監督の後を引き継ぐ形で同部の監督に就任した。
あまがや まゆみ●東邦銀行陸上競技部 コーチ
1983年6月6日生まれ、新潟県出身。日本文理高校時代から陸上競技選手として活躍し、福島大学進学後に4×100mリレーで日本学生新記録を樹立するなど、トップアスリートとしての頭角を現す。東邦銀行陸上競技部所属。2015年の引退まで、日本代表選手として数々の世界大会に出場。2009年の国際グランプリ大阪では、4×100mリレー日本チームとして、日本記録(当時)を樹立したほか、2012年に記録したスウェーデンリレーと60m(野外)、2015年10月の4×200mリレーの3つの日本記録を樹立し、60m(野外)は現在も保持する。