SUNTORY CHALLENGED SPORTS PROJECT
#40 「円盤投げから砲丸投げへ転向 夢は妻に捧げる金メダル」
陸上(砲丸投げ) 大井 利江選手
サントリーチャレンジド・アスリート奨励金 第二期、第三期対象
Q.競技との出会い、出場した大会や成績は?
父がけがをして働けなくなったため、高校を中退して遠洋マグロ漁師になりました。1988年、39歳の時、しけのミッドウェー沖で操業中に重さ20キロの道具入れが落ちてきて後頭部を直撃し、頸髄損傷の重傷を負いました。首と腕以外は動かなくなり、車いすで生活しています。
陸上競技に出会ったのは98年、50歳になった年でした。知人に誘われて大会を見に行き、障がい者の陸上にも短距離から投てきまで、いろんな種目があると知りました。一生懸命な選手の姿に刺激を受け、私も円盤投げを始めました。
最初は10メートルも飛ばず、プールで介助者に体を支えてもらいながら水中での筋トレを繰り返しました。私の場合、泳ぎは腕の力だけが頼りなので、体の軸が傾くと沈んでしまいます。体の軸を重視してトレーニングしているうちに体のバランスが取れるようになり、円盤投げの記録も伸びました。2004年のアテネでパラリンピックに初出場し、ジャマイカの選手と世界新記録を出し合ったすえ、15センチ差で及ばず25メートル03で銀メダルとなりました。08年の北京パラリンピックでは銅メダルでした。
Q.困難に直面し乗り越えた経験は?
2014年、私の障がいクラスでは2年後のリオデジャネイロ・パラリンピックで円盤投げが実施されないことになりました。引退を考えましたが、「世界で戦いたい」という思いが強く、砲丸投げへ転向しました。
もともと右利きなので円盤投げは右投げでやっていましたが、右腕は肩から上にあがりません。砲丸投げでは右手で砲丸を耳の近くまで持ってくることができないので、左投げでやっています。最初は左手で砲丸をしっかりつかむこともできず、ゼロからの再出発でした。
リオへの出場権を得る最後のチャンスは2015年7月の日本選手権でした。それまでの自己最高記録は5メートル台前半。リオに行くのは若い人だろうと思っていたら、最後の一投で6メートル37の日本記録を出し、さらに9月のジャパンパラ陸上競技大会で記録を6メートル60に塗り替え、リオ出場が決まりました。プールで泳いでバランス感覚を鍛え直し、左で投げる練習を積み重ねた成果が出たのだと思います。砲丸投げで挑む初のパラリンピックとなったリオでは、7位でした。
Q.東日本大震災の時はどうでしたか?
私の住む岩手県洋野町にも10メートルの津波が押し寄せました。海岸から自宅まで100メートルほどです。津波が来る前に消防団に助けられて家から脱出し、すぐ目の前の高台に逃げました。
ロンドン・パラリンピックの前年でしたが、震災後は体調を崩し、気持ちも奮い立たなくなり、半年ぐらい練習を休みました。
「こんな大変な時に自分だけが競技をやっていいのか」と思いましたが、妻(須恵子さん)も周囲の人たちも「やろうよ」と応援してくれました。みんな大変な思いをしているのに、私の背中を押してくれました。ロンドン大会には「みんなに勇気を」という思いで出場し、10位でした。
震災から6年たっても、まだまだ復興途中です。私が頑張ることで、みんなの心の復興に少しでも力になれたらと思っています。
Q.夢・目標は
東京パラリンピックでの金メダルです。
左投げにはまだぎこちなさも感じていますし、2020年には私は72歳になります。そして金メダル獲得には8メートル50が必要で、今後3年で記録を2メートル伸ばしていかなければなりません。それでも、やってみる価値はあります。家では車いすに座って40キロのバーベルを突き上げる運動で鍛えています。
妻にはいつも、「まだまだやれる」と励まされてきました。妻は一番の理解者です。二人で東京パラリンピックへ歩んで、金メダルを妻に捧げたい。人生は、自分が強く思う方に流れます。努力は必ず報われると信じています。
大井 利江選手TOSHIE OHI
サントリーチャレンジド・アスリート奨励金 第二期、第三期対象
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●1948年8月29日生
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●岩手県洋野町出身、在住
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●仕事中に頚椎を損傷、平成6年からリハビリを兼ねて水泳を開始。その後陸上に転向。
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●出場大会
アジアオセアニア大会
世界選手権
アテネパラリンピック
北京パラリンピック
ロンドンパラリンピック
リオデジャネイロパラリンピック -
●趣味:ゲートボール