先づ茶の数奇と云ふ者は、茶の具足をきれいにして、建盞、天目茶釜などの色々の具足を、心の及ぶ程たしなみ持ちたる人は「茶数奇」也。是を哥にていはゞ、硯、文台、短冊、懐帋などうつくしくたしなみて、何時も一続など読み、会所などしかるべき人は「茶数奇の類」也。と、室町時代の歌人・清巖正徹は書いているそうだ。数寄とは何にせよ心寄せ、強く執着することであって、さて、それでは「ウイ数奇」ということになると、如何いうことになるだろう。さしずめ「ふだんより色々のグラス、水差し、コースターなどうつくしくたしなみ、歳月に磨かれたピュアモルトのみ愛で、注ぎ方ひとつにも心くだきたる人」というようなことになるのだろうかな。
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