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ウエスタン・サルーン(2)

このパブはエールを注文すると必ず2杯出てくる。わたしは甘みのあるダークエールをしっかりと2杯飲んだ。おいしかった。

ちなみに20世紀はじめまでの店名はOld House at Home(故郷のなつかしき家)だった。ジョン・マクソーリーが故郷のアイルランド、ティロン州オマーにあったパブを懐かしみ、範として開業したものだ。

1908年頃、古くなっていた看板が風に飛ばされてしまい、新しく付け替えることになってMcSorley’s Old Ale Houseに改名した。

1910年にオールド・ジョンは87歳で他界。19世紀末から店を仕切っていた息子のビルは父に負けぬほどの頑固者だった。酒は一滴も飲まず、愛想はなく、30歳を前にしてすでにオールド・ビルと呼ばれていたという。

前回から19世紀アメリカ西部のサルーンについて語っているが、ミッチェルが伝えている昔のマクソーリーの空気感は西部の酒場とはかなり異なっているように思える。国家としての成り立ちが示すように、東部、ニューヨークはやはり都会だったのである。

 

アパラチア山脈の東、独立時の東部13州のなかでもボストン、ニューヨーク、フィラデルフィアといった地は建国前、17世紀にヨーロッパからの多くの植民によって町が形成されていった。

まずはじめ、イギリス社会が移植された。典型的な公共施設、パブリックハウスはまさにイギリス文化であった。タバーン、イン、オーディナリといった呼び方もされるが、どれも似たようなもので、アルコールを提供し、宿泊も可能だった。植民地政府はこうした施設を許認可制にした。

秩序を保てると認めた人物だけに酒類販売を許可。そして移住者や旅人の受け入れと監視役を任せた。パブリックハウスに責任を負わせることで秩序が保たれ、しかも植民地政府は許可手数料や税金によって潤う仕組みである。

ひとつの町に必ず1軒以上のパブリックハウスがあり、経営者は町の顔役的存在だった。これが後に連載47回「シカゴ・マシーン」2ページ目で述べた酒場を中心とした政治をも操る利権集団“マシーン”を生み、やがてそのチカラを削ぐために禁酒法制化の動きと結びつくことになる。

ウエスタン・サルーンの話から離れるが、次回からは植民地支配を脱し、東部13州が独立した時代以降のパブリックハウスの変遷をみつめてみようと思う。

初代大統領ジョージ・ワシントンが最初に着手した政策のひとつに13州のパブリックハウスの施設整備があった。当然ではあるが、18世紀末の新国家はとてもとても幼かったのである。同時代、江戸に幕府があった日本は街道や宿場の整備がすすんでいた。国家としての時の厚みは歴然としていたわけだが、その後アメリカは驚異的なスピードで文明化していったのである。

では、次回までの間、クラフトバーボン「ノブクリーク」をじっくりと味わいっていただきたい。深い熟成感。力強く、そしてスイート。ニュースピリッツだったアメリカが熟成していく姿をともに見つめる酒としてふさわしい。

(第52回了)

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