彼はユダヤ系ドイツ人であり、現ポーランドのシュチェチンからアメリカに移住してきた。若くしてタバコの製造で成功し、その財でブロードウェイに多くのオペラ劇場を建設し、「サロメ」「エレクトラ」といった公演をアメリカに持ち込み、興行主として一世を風靡する。
余談だが、彼の息子は優秀な劇場主となったが、早逝。コロンビア大学法科大学院の学生だった孫のオスカー・ハマースタイン2世(1895−1960)が跡を継いだ。このハマースタイン2世は脚本家、作詞家として名高く、現在に通じるミュージカルの祖と評価される人物である。
彼の名を知らなくても、世界中の人々が、ミュージカルで彼が作詞した曲を知っている。『Shall We Dance』(王様と私)、『ドレミの歌』『エーデルワイス』(サウンド・オブ・ミュージック)など名作が数多くある。
タイムズ・スクエアの名称が生まれたのは20世紀初頭。それまではロングエーカー・スクエアと呼ばれていた。1904年、42丁目角(現ワン・タイムズスクエア)にニューヨーク・タイムズ本社が移転(1913年には、西43丁目229番地/タイムズ・アネックスに移転)してきたことによる。しかもタイムズ社の懇請により地下鉄の駅もつくられた。これにより周辺に劇場、ミュージックホールなどが建設され、さらに発展していくことになる。
ここでまたジャーマン・アメリカンが活躍する。フローレンツ・ジーグフェルド・ジュニア(1867−1932)。舞台演出家、プロデューサー。スペクタクルなアメリカン・レビューを開花させた人物である。スター発掘の名手だった。
シカゴ生まれの彼が、ブロードウェイに進出するまでがなかなかに面白い。ドイツからの移民であった彼の父親は音楽学校やナイトクラブの経営者であり、裕福な家庭で育っている。
1893年に開催されたシカゴ万国博覧会での来客を想定して父親がナイトクラブを開く。ところが思惑がはずれ、経営が立ち行かなくなったとき、息子のフローレンツが妙案を思いつく。後に“近代ボディビルの父”と呼ばれるユージン・サンドウ(1867—1925)の肉体美に目をつけた彼は、サンドウを店の広告宣伝に担ぎ出し、経営を軌道に乗せたのだった。
サンドウもドイツ系。プロセイン王国ケーニヒスベルグ(現ロシア連邦カリーニングラード)出身、本名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ミュラー。少年時代に父親に連れられイタリアに行った際、古代ギリシャやローマの彫刻に魅せられる。それ以降、英雄や戦士の肉体美、完璧な肉体を求めて自ら鍛え上げた。
ヨーロッパをさまざまな興行で巡り、肉体美や怪力のパフォーマンスで人気を得る。彼自身が知的で上品な態度に徹したから人気も高かった。そしてついにシカゴ万博でパーフォンマンスを披露するためにアメリカに上陸し、フローレンツに見出されたのだった。
では今回はここまで、フローレンツ・ジーグフェルド・ジュニアがこの後どうやってブロードウェイで名声を得たか、サンドウはどんな道を歩んだのか、そしてシアター・ディストリクトがどう興隆したのか、次回で語ることにする。
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